<あとがき>

 

このインド旅行記は2011年の1月に、僕が34歳の時にした旅の記録です。

旅に行く前、僕は恋愛や自分の現状に悩みを抱え、精神的に弱っていました。いわばその辛い状態から逃げ出すように向かったのがインドという国でした。
そんなある種不純な動機で向かったインドでしたが、振り返って思うのは、インドという国は優しかった、ということです。インドの人たちにとって僕は外国から来た旅行者だったわけですが、彼らは根本的な部分においては僕が何者であるかを問わないように感じました。日本にいれば何歳で、どういう仕事をして、どれくらい成功して、どんな社会的ポジションにいるのか、何を所有しているのかとか、常にどこかで問われているように思います。特に年齢を重ねてくれば、そうしたことを無視することはなかなかできなくなり、やっぱり周りと同じように頑張らなくては、とか、周りが持っているものを自分も手にしなくては、と焦りを感じたりもします。

でも、旅行記の中で「バラナシはとにかく優しかった」と書いたように、僕が見たインドはそうした面で優しかった。貧しい人たちが多いから、とかいろいろ説明はできるのかもしれませんが、弱っていた僕にはとにかくこの国のそんな空気がありがたかったのだと思います。無論ひと時の旅人に過ぎない自分にとって、その時間はあくまで束の間の現実逃避のようなものですが、僕はインドの喧騒やカオスに巻き込まれ、翻弄され、あたふたジタバタし、ときにはガンジス河のほとりで静かにたたずむことで、少しずつ癒されて、少し元気になれたように思います。そして僕以外の多くの旅人がこの国に魅力を感じ、何度も訪れたりするのは、きっとどこかでそういったこの国の空気が心地よいのではないかと思うのです。

インドから帰ってすぐに日本で震災が起き、今度はその流れに飲み込まれるように月日が流れ、いつしかこの旅からも時間が経ちました。34歳だった僕は今40歳となり、今これと同じような旅をしようと思っても、できないのだと思います。でもこの1か月のインドの旅は僕にとってとても大切な思い出となり、今でも辛いときや気分が塞いだりするときは、デリーの喧騒や、バラナシの空気感や、パラゴンでの最後の夜の情景を思い出すことで、結構救われたりするのです。だからこの旅は本当に行ってよかったと思います。

昨年末にこのインドの旅以来となるバックパック旅行をしましたが、やはりそれはこの旅とは全然別の旅になりました。自分も年を重ねていくし、旅の形は変わっていくことを改めて実感したわけですが、また自分の人生のどこかで、あの優しさに触れて、何者でもない自分としてその国の空気をゆっくりと吸いこむような時間が持てたらなあと、僕は願っています。


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<Final Day コルカタ >



               1月31日

 目が覚めると、部屋の中には自分を含めて2人しか残っていなかった。
 腹の調子もすっかりよくなり、身体は快調だった。やはり一昨日からたくさん寝たのがよかったのかもしれない。

 朝食を食べにサダル・ストリートに出た。
 この旅最後となる朝食は、パンケーキを食べようと思っていた。インドのカフェは軽食としてパンケーキを出すところが多く、インドにいる間は大体こうしたパンケーキを朝に食べ続けていた。だから最後にもう一度それを食べようと思った。

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 サダル・ストリートにある一軒のカフェに入ると、そこには昨夜話をしたニコラスがいたが、残念ながらそこにはパンケーキがなかったので、軽く挨拶だけして店を出た。
 次に入った店にはパンケーキがあったので、そこでハニー・バナナ・パンケーキとチャイを注文した。店の中で新聞を売っていたのでそれを購入して読み、後から入ってきたひとりの女性と話をした。チリからの旅行者らしく、彼女もまた長い旅をしていそうな雰囲気だった。歌うことを生業にしているとのことで、カフェの中でもなにやら歌をうたっていた。

 パラゴンに戻ると部屋にチアキちゃんがいた。モトさんは今朝早くダッカに向けて発ったとのことだった。
 僕もチアキちゃんも夜にコルカタを発つことになっていたので、まだ十分時間があった。お互いマザーハウスに興味を持っていることがわかったので、午後2時半に宿で待ち合わせて一緒に行くことになった。

 11時過ぎにひとまずチェックアウトを行い、宿のスタッフにバックパックを預かってもらうと、インターネットショップに行ってメールをチェックした。
 トーコちゃんからメールが届いていた。
 僕が病室を出た5分後に退院許可が下りたそうで、まだ歩き回るのはしんどいが、それでも大分回復してきたと書いていた。そしてもう数日静養して、来月の上旬にバラナシを離れようと考えているとのことだった。僕は本当によかったなと思い、とにかく気をつけてよい旅になりますようにと願った。

 それからチョウロンギ通りを歩いた。
 チョウロンギ通りは多くの人や露店でにぎわっており、その中に木彫りの神像を路上に並べて売っているおじさんがいた。ガネーシャやシヴァ、クリシュナなど、インドに来て以来何度も目にしてきた神様たちが、手のひらに乗るくらいのサイズに削り出されていた。しかも値段はひとつ10ルピーから15ルピーと、ニューマーケットの土産物屋などに比べると全然安い。帰国してからもインドを思い出すような物がほしいと思っていた僕は、それを購入することにした。友人への土産も含めて6体購入しても、わずか75ルピーだった。
 
 買った物をバックパックに収納するために一旦宿に戻ると、フロントにいた男から一枚の紙を渡された。見ると昨日の夜に話をしたムーンからの伝言が書かれていた。昨晩タクシーをシェアして空港に行こうと話をしたはいいが、午前中も姿を見かけなかったのでどうなったのかと思っていたのだが、どうやら彼女はバスか地下鉄で行くことにしたようだった。

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 マザーハウスに行くまでにはもう少し時間があったので、もう一度サダル・ストリートに出ると、そこでワシムに会った。
 道路わきに一台のタクシーが止まっており、ワシムはその助手席から手を振っていた。
「なんでタクシーなんかに乗ってるんだ?」
「こいつはオレの友達のタクシーなんだよ」
 そう言って彼は運転席にいる30代くらいの男を紹介した。ちょうど空港に行くためのタクシーが必要だったので、彼に連れていってもらうことになった。
「これからどこに行くんだ?」
 ワシムが訊いてきたので、もう少ししたらマザーハウスに行こうと思っていると言うと、ちょうど自分の彼女が午前のボランティアを終えて戻ってくるから紹介すると言った。どうやら日本人の彼女がいるというのは本当だったようだ。

 しばらくするとその彼女がやって来た。
 どんな人なのだろうと思っていたが、30歳前後くらいの、おとなしくて真面目そうな人だった。彼と付き合ってるんですかと訊くと、ええまあ、と答えた。
「でもこの人ほんとだらしがなくて」
 そう落ち着いた声で話す彼女を見て、なにか少しホッとする気持ちになった。あるいはワシムに騙されているのではないかと心配もしていたが、少なくとも彼女は、彼がどんな人間なのかをある程度理解した上で付き合っているようだった。
 今日の午後はボランティアをしないとのことだったので、少しした後にまたどこかで、と言って別れた。

 その後近くの床屋に行き、1カ月放置したひげを剃ってもらった。簡単な肩のマッサージもついて40ルピー、80円ほどだった。

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 パラゴンに戻り、敷地内の椅子に座っているとチアキちゃんが現れたので、リクシャーを拾ってマザーハウスに向かった。
 この時に乗ったのはオートリクシャーでもサイクルリクシャーでもなく、人が走って引っ張る正真正銘の「人力車」だった。今ではこのタイプのリクシャーはコルカタぐらいにしか残っていないらしい。しかも運転手は裸足だった。そのほうが走りやすいということなのか、単に貧しいからなのかわからなかったが、いずれにせよ楽な仕事ではないだろうなと思った。僕らはその初老の運転手が裸足で走って引くリクシャーに乗って、マザーハウスに向かった。

 リクシャーは10分もしないうちに到着した。
 運転手に30ルピーを渡し、交差点の近くにあるマザーハウスの中に入った。白を基調にした建物で、敷地面積はそれほどなさそうだった。
 僕らはボランティアではなく単なる見物客だったので、入口でその旨を伝え、しばらくして現れた女性に先導されて奥に進んだ。
 まず比較的広々とした、どこか礼拝堂のようにも見える部屋に案内された。そしてそこにマザー・テレサのものだという墓石が置かれていた。
「マザーはここに眠っているのですか」
 近くにいたシスターにそう訊くと、
「あの石の下に彼女の遺体が安置されています」
 と答えが返ってきた。
 部屋の中には厳粛な空気が漂っており、何人かのシスターがやって来て墓石に向かって祈りを捧げていたりしていた。
 続いて入った隣の部屋にはマザー・テレサの生涯を説明する写真や文章が展示されており、マケドニアに生まれた彼女がいかにインドにやって来て、コルカタに身を埋めることとなったのか、その歩みが生前に発した言葉などと合わせて紹介されていた。そうしたものを読んでいると、彼女の信仰心から生み出された力に圧倒されるようで、それはまさしく人知を超えた何かであるように感じられた。
 信仰の力というのはすごいものだ……
 インドではヒンドゥー教イスラム教、仏教の存在を感じる機会があったが、キリスト教もまた、この地にしっかりと生きていた。インドは本当に信仰の国だった。
 1時間ほど施設内を見学し、外に出た。
 
 帰りは歩いてサダル・ストリートまで戻った。
 夜まで時間があったのでお茶でもしようかという話になり、ニューマーケットのほうに向かって歩き始めたところでまたワシムと会った。彼と会うのもこれで最後だろうと思い、おごるからカフェに行かないかと誘ってみた。
 チアキちゃんは以前に路上でワシムに声をかけられたことがあったようだった。その時はいかにも胡散臭そうな男に思えたので、相手をしなかったらしい。それは女性としては、まことに正しい対応だった。

 結局僕らは3人でニューマーケットの近くにある「バリスタ」に行った。「バリスタ」はデリーでも何度か行った、ヨーロピアン風のしゃれたカフェだった。
 僕はアイリッシュ・コーヒーを注文し、チアキちゃんはマンゴー・スムージーを注文した。ワシムは注文の仕方にやや戸惑っているような様子で、ひょっとしたら彼はこうした店に入るのが初めてなのではないかという気がした。「バリスタ」はその洗練された雰囲気を裏付けるように、コーヒーを飲むにしても通常の大衆食堂に比べると倍くらいの値段がした。
 なんでも好きなものを頼みなよと言うと、しばらくメニューを見ていた彼はやがて炭酸飲料のようなものを注文した。

 2階の椅子に座って飲みながら3人で話をした。
 とは言っても話すのはもっぱらワシムで、僕とチアキちゃんはほとんどその聞き役だった。
「オレの彼女は横浜に住んでいるんだ。ホテルのマネージャーをしていて、家もあるし、車も持ってる。いつかは俺も日本に行ってそこに住むつもりさ。彼女と出会ったのは2年くらい前だ。日本の女は大体簡単に落とせるけど、彼女は難しかった。だけどオレは友達に言ってたんだ。絶対に落としてみせるって。それであるとき彼女がコルカタからプリーに行った時に、俺も追いかけてプリーまで行ったんだ。そして町を探し回って彼女を見つけた。そこで彼女もオレを受け入れたってわけさ……」
 どこまで真実なのかはなはだ疑問だったが、ワシムはそうして自分と彼女に関するエピソードを語り続けた。僕はそれに多少突っ込みをいれながら話半分に聞き流し、チアキちゃんもまた「本当かなあ……」と首をかしげながら聞いていた。
 そんな風に話しているとやがて午後5時を過ぎたので、僕らはカフェを出て宿に戻ることにした。僕の飛行機は午後9時55分発で、チアキちゃんは今晩の夜行列車でプリーに行くことになっていた。

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 外に出て、一瞬ワシムが遠くに離れた際にチアキちゃんが言った。
「チャラいですね」
 彼女はワシムに対してほとほと呆れているようだった。まあそれも当然だろうと思った。いくら20かそこらの若者とはいえ、日本人の女性を前にして「日本の女は簡単に落とせる」などと言うのはさすがに失礼が過ぎるだろうと僕も思った。
「あんな男にダマされちゃう女性がそんなにいるんですかねえ…… でもインド人男性と日本人女性のカップルって確かにけっこういますよね。あとインド人と日本人の間に生まれた子供は可愛いって聞きました……」
 
 パラゴンの前まで来ると、ワシムは気をつけてな、また来なよ、というようなことを言った。僕はいろいろ付き合ってくれてありがとうと礼を言い、それからがしっとハグをしてバンバンと互いの背中を叩き合った。
 ワシムの友人のタクシーはすでに到着しており、宿の前の路地からサダル・ストリートに出たところで待っていた。
 
 宿の中に入ってバックパックを倉庫からピックアップしていると、後ろから声をかけられた。振り向くと、そこにムーンがいた。彼女も預けていた荷物を取りに戻ってきたようで、なんでも自分と同じ便で韓国に帰る2人の旅行者を見つけたので、やはりタクシーをシェアして帰ることにしたらしい。
「よかったらあなたも一緒に行かない?」
 そう言われ、もちろん異存はなかったので承諾した。
 ムーンが知り合ったという旅行者は2人とも彼女と同じ年くらいの女の子だった。僕はワシムの友人のもとに行き、乗客が4人になったことを告げた。すると彼は元々250ルピーで合意していた料金を300ルピーに値上げしてきた。なぜだと訊くと、人数が増えたからだと言う。
 これはどうしたものかなと宿に戻ってムーンにそのことを伝えると、彼女もまた人数が増えたからといって値段が上がることはないはずだ、以前にあるインド人が人数と値段は関係ないと言っていたと言い、それなら別のタクシーにしようと言った。
 宿の前にはまだワシムがいたので、僕は彼に別のタクシーで行くことになるかもしれないと言った。すると彼は交渉すれば友人もディスカウントしてくれるかもしれないと言い、自分は用事があるのでもう行かなければならないと言った。僕はワシムと別れの挨拶を交わし、その間にムーンはちょうど宿の前にやってきた別のタクシーの運転手と交渉を始めた。その運転手はムーンに250ルピーで行くと言ったようだった。
「ほら。こっちで行こう」
 そう言ってムーンは他の2人と共にタクシーに乗り込んだ。ところが乗った後にその運転手が料金の先払いを要求してきたため、話はややこしいことになった。
「先払いは絶対だめ。インドではそれで何度もトラブルに遭ったんだから。着いてからじゃないと払わないわ」
 ムーンはぴしゃりと言った。運転手はそれに関しては受け入れたようだったが、今度はトランクの使用代として25ルピーを追加で払うようにと要求してきた。これもまた、そんな話は聞いていないとムーンがはねつけた。44日間もインドを旅しただけあって、ムーンもこの手の交渉に対してはすっかり鍛えられている様子だった。
 しかし運転手もなかなか折れず、押し問答が続けられた。しばらくするとパラゴンのスタッフが外に出てきて苛立ったように言った。
「早く移動してくれ。一体なにをそんなにもめているんだ?」
 宿の前は車が1台入れば道がふさがってしまうくらいの細い路地だったので、そこにタクシーが止まり続けているのが彼らにとっては迷惑のようだった。
「だって事前に聞いていないことを言うんだもの」
「だったらなんで事前に自分から確認しておかない!?」
 ムーンとスタッフの間で言葉の応酬がなされた。いつの間にやらパラゴンの前には宿のスタッフと旅行者が集まり、ちょっとした人だかりになっていた。
 僕はムーンの交渉を横からサポートしながら、インドは最後の最後までこうなのだなとなにやらおかしくもあった。
 僕もムーンも今日インドを去る。そうなれば使われなかったルピーは余ることになる。もはや旅は終わるのだから、たかだか50ルピー、100円ほどの金額にここまで粘るのは馬鹿げているのかもしれない。しかし僕もまたここで妥協はせず、最後までこれまでの姿勢を貫いてこの土地を去りたかった。それはなんだったのだろう。元々はデリーのコンノート・プレイスで疑心暗鬼になり、旅行者としてだまされないために身に着けた防衛本能のようなものだった。しかしそれによって生まれた緊張感が、結果的にインドでの旅をより豊かで濃厚なものにしていたのだった。緊張感が自分を覚醒させ、様々な出会いや経験を生み出し、ここまで僕を運んでくれたのだった。それをもはや金の心配はないからとここで緩めてしまったら、最後の最後で旅がほころんでしまうような、そんな思いだったのかもしれない。

 やがてついに交渉がまとまり、僕ら4人を乗せたタクシーはスタッフの悪態を浴びながらパラゴンの前から動き出すこととなった。僕は宿の前で様子を見守っていたチアキちゃんに、車の中から手を振って別れを告げた。

 すっかり暗くなったコルカタの街をタクシーは走った。
 サダル・ストリートから離れて眺める夜のコルカタは、やはりなかなかに栄えた街だった。闇の中にたくさんの店の灯りが光り、たくさんの人々の姿が目についた。
 僕はそうした風景に目をやりながら、ふとワシムの友人の運転手に何も言わずに出発してきてしまったことに気がついた。考えてみれば新しいタクシーとの交渉に没頭するあまり、彼に正式な断りを入れることをすっかり忘れていた。彼は宿の前からは死角になる位置にタクシーを止めていたから、ひょっとしたら騒ぎには気づかず、僕らが戻ってくるのをずっと待っていたかもしれない…… だとすれば彼にとってもワシムにとっても悪いことをしてしまったなと思った。
 しかしもはやそれを謝る機会はなかった。さっきまで当たり前のように話をしていたワシムにしても、ひょっとすればあれが僕の一生で彼を見る最後の機会だったのかもしれなかった。一度だけの機会。そうしたものが毎日のように目の前に現れて、去っていく。旅とは取得と喪失の繰り返しだった。その循環が激しいからこそ、旅の中にどうしようもなく強い生を感じるのだろう。
 旅の中には生があるのだ。

 道は時折渋滞したが、それでも出発の2時間半前となる7時半にはコルカタの空港に到着した。
 助手席に座っていた僕が料金を払い、自分たちの分を渡そうとしたムーンたちをいいから、と言って制すると、彼女たちはそれは絶対にダメだと言って受け入れなかった。ルピーが余ったからいいよと言っても、いやそれはいけないと彼女たちは断固として譲らなかった。僕は結局素直に受け取ることにした。
 僕よりも搭乗時間までゆとりのあった彼女たちは、チェックインをする前に空港内をまわって食事をするということだった。
「日本まで気をつけて」
「韓国まで気をつけて」
 そう言って、互いに手を振って別れた。

 空港内はそれ程広くなさそうで、人も少なく閑散としていた。
 誰も並んでいないシンガポール航空の受付に行ってチェックインをし、荷物を預けた。旅の途中で帰国便を変更したのでインターネットショップでプリントアウトした紙を用意していたのだが、結局提示を求められたのはパスポートだけだった。

 手荷物検査などを経て奥に進むと、搭乗口の前に長椅子が並べられたスペースがあり、そこで同じ便に乗ると思われる人たちが座って待っていた。見たところインド人がほとんどだった。
 近くにはキオスクのような小さな売店があるだけで、歩いてまわるような場所もなかった。僕は売店でコーヒーを買うと、長椅子に座ってテレビなどを眺めながら待ち続けた。エジプトで大きな反政府デモのようなものが発生したらしく、テレビはずっとその様子を映し続けていた。

 夜の空港は落ち着いていて、静かだった。
 やがて搭乗のアナウンスがされた。
 インドの路上の騒音がすでに遠くなりつつあるのを感じながら、僕は飛行機に乗り込んだ。



                                 






<Day 25 コルカタ >



               1月30日

 結局朝の10時頃まで眠り続けた。
 眠りは浅かったが、15時間くらい寝たせいか起きると身体がすっきりしていた。バラナシの最後の日々が慌ただしかった上に移動が重なったことで、昨日は疲労が高まっていたのかもしれない。腹が少し下り気味だったのが気になったが、それ以外は特に問題はなさそうだったので、外に出かけることにした。

 サダル・ストリートに出て周辺を少し散歩した。
 昨日チャイを飲んだベンチが置かれている路地に入り、さらにその先に歩いていくと、右手に「パラゴン」と看板が出された一軒の宿があった。宿の前ではひとりの男が路上に品物を並べて商売の準備をしており、建物の中をのぞくと何人かのバックパッカー風の旅行者の姿が見えた。見たところドミトリー宿のようだった。

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 昨日ドミトリーに泊まろうと考えたことを思い出し、フロントで空き部屋があるか訊いてみた。空き部屋はあるらしく、ドミトリーの値段は一泊120ルピー、240円ほどだった。雰囲気もなんとなくよさそうだったので、僕はここに移ってみることにした。

 スーパー・ゲストハウスに戻ってチェックアウトを行い、再びパラゴンに戻った。
 宿は門のようになっている入口を入ったところにフロントがあり、その先に3メートルくらいの幅の、天井のない吹き抜けの空間が奥に向かって伸びていた。建物はその空間を囲うようにして建っており、フロントから向かって左手に並んでいるのがドミトリーのようだった。トイレとシャワーは共同で、敷地の一番奥のほうにあった。
 あてがわれたのはフロント側から数えて2つ目のドミトリーで、緑を基調にした壁紙が貼られた部屋には2つのベッドが3列になって配置されていた。一部屋に6人が泊まれるようで、僕のベッドは左奥のようだった。

 宿泊客はすでに全員出かけたようで、部屋の中には誰もいなかった。ベッドの上にはいくつかの荷物が置かれたままになっており、室内に張られた洗濯ロープに服やタオルなどがかかっていた。

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 悪くなさそうだなと思った。僕はバックパックをベッドの上に置くと、貴重品などを小さなカバンなどに入れ替えて外に出た。

 サダル・ストリートのカフェで朝食を取り、それから近くにある公園に行ってみた。
 パラゴンからサダル・ストリートを西に向かって数百メートル歩くと、チョウロンギ通りという大きな通りにぶつかる。公園はそのチョウロンギ通りを渡った反対側にあった。モイダン公園という名のその公園は随分広いようだったが、公園内を大きな道路が横切ったりしていて、なんとなく散歩しづらい印象を受けた。それでも露店でチャイを買ったりしながらしばらく歩き続けていたが、やがて朝から微妙だった腹の調子がさらに怪しくなってきたので、一旦宿のほうに引き返すことにした。

 サダル・ストリートに戻ったところでまたワシムと出くわしたが、いよいよ腹が下ってきたので話を切り上げて宿に戻り、トイレに駆け込んだ。
 インドに来てから一度も腹を壊したことがなかったのだが、最後の最後になってようやくその洗礼を受けたようだった。

 その後は外に出かけては、腹の調子が悪くなって宿に戻って来るということを繰り返した。しばらく宿でじっとしていると収まってきたような気がしてまた外に出るのだが、1、2時間も歩いているとやはりまた波がやってきた。波が来ていないときは普通に動けたのでそこまでひどい状態ではなさそうだったが、落ち着いて遠くに出かけられる感じではなかったので、今日はひとまず大人しくしていようと思った。
 ちなみにインドではトイレで用を足した後に紙を使わず、手桶に汲んだ水と手を使って洗うことが一般的だったが、このインドスタイルは腹を下しているときにはとても有効だということがわかった。いわゆる何度も紙で拭いている時に生じるあのヒリヒリ感がなく、すべてがすっきりクリーンになったような、とても爽快な気持ちになるのだ。

 何度目かのトイレから戻ってきて吹き抜け空間の椅子に座っていると、様々な旅行者が宿を出入りしていく様子が見えた。日本人も目についたが、それよりも多かったのは韓国人だった。彼らは全体的に若く、学生っぽい雰囲気の者たちが多かった。そうした彼らが5、6人のグループになって笑いながら宿の外に出ていく様子などを見ていると、一人旅もいいが、ああいう旅もきっと楽しいものなのだろうなと思った。

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 そうして部屋の外や宿の外をしばし行ったり来たりした後は、部屋のベッドに横たわって少し眠った。コルカタでは何か寝ているうちに時間が過ぎていくようだった。
 
 目が覚めると外はすでに薄暗くなっていた。
 ああもう夕方なのかと開いたドアの外を見ていると、ひとりの女の子が部屋に入ってきて入口の脇にあるベッドに腰かけた。パラゴンのドミトリーは男女共同だったので、彼女もこの部屋に泊まっているのだろう。まだ20代の前半くらいに見える若い女の子で、見た瞬間に日本人だろうなと思った。向こうがこっちを見たので、軽く頷いてどうもと声をかけた。
「こんにちは」
 彼女も頷き、日本語で返してきた。
 夕食まで小休止をするために部屋に戻ってきたようだったので、お互いベッドに腰かけながら話をした。
 まだ高校生でも通用しそうな純朴そうな顔をしていたが、現在は大学生とのことで、話を訊くとなかなかスケールの大きい旅をしていた。旅に出てすでに7カ月になると言い、東ヨーロッパをまわった後にトルコに行き、そこからイラン、ネパールをまわってインドに来たらしい。これからさらに数か月かけてインドと東南アジアをまわり帰国する予定だと言う。大学には1年間の休学届を出してきたらしい。それで単独でのバックパック旅行に出てきたと言うから大したものだなあと思った。あるいはそれだけのことを決意させる何かが日本であったのかもしれないが、いずれにせよ大学生の時に1年間かけて世界を旅するなんてすごい経験に違いないと思い、彼女の年齢のときにそのような旅をしてこなかった僕はうらやましさを感じた。
 
 しばらくそうして話をしていると、ひとりの男性がドアからひょいっと顔を出した。
「そろそろ行こうか?」
 そう日本語で訊ねる彼に彼女は「あ、はい」と答え、僕を彼に紹介した。その丸い顔つきには見覚えがあった。コルカタ行きの列車のトイレで会い、バブルの時代のよさについて語っていたあの彼だった。彼も僕のことを記憶していたようだった。
「ああー、ここに泊まってたんですか。あの後コルカタの駅でタクシーを相乗りしようと思ってちょっと探したんですよ。でも見つからなかったので…」
 と彼は言った。
「これから夕食を食べに行こうと思うんですが、よかったら一緒に行きませんか?」
 そう彼は誘ってくれ、せっかくの機会なので一緒に行かせてもらうことにした。

 3人で宿を出て、すぐ近くにあった「ジョジョズ(Jojo's)」というレストランに入った。
 僕は腹の調子がいまだに微妙だったので、とりあえず野菜スープのようなものだけを頼んだ。
 それぞれの注文が終わるとお互いに自己紹介をした。バブルの彼は「モトです」と言い、女の子は「チアキです」と言った。彼らはネパールで知り合ったとのことだった。モトさんは旅に出て3カ月くらいになると言い、旅の期間は最長で4年を考えていると言った。ネパールでは日本語を教えていたりもしたらしい。彼は明日バングラデシュのダッカに向かうと言い、チアキちゃんもまた明日コルカタの南にあるプリーという町に向かうとのことだった。
 自分はどちらかというと、せっかく海外にいるのだからなるべく異国の人と交流したいという気持ちが強かったのだが、こうして同じ国の人間とたまたまある街で出会い、ある瞬間を共に過ごすというのは何かとてもいいものだなと思った。旅をしていると一期一会という言葉を本当に素直に実感する。そしてそれはまぎれもなく、旅の素晴らしいところだった。

 食事を終えて宿に戻り、僕はなんとなく外の空気に浸りたい気分だったので、部屋の外で一服することにした。チアキちゃんは部屋に戻り、モトさんもまた泊まっている別の部屋に戻っていった。
 部屋の前の椅子にはひとりの西洋人が座っていた。同じ部屋に泊まっている男で、昼間にも少し言葉を交わしていた。僕は彼の隣に座り、しばし話をした。
 あらためて自己紹介をすると、彼は名前をニコラスと言い、フランスから来たと言った。旅に出て2年になると言い、インドに来てからは3カ月ほど経つと言った。そんなに長い間どのように旅をしているのか気になって訊いてみると、各国の農場などに住み込んで働きながら旅をしているのだと言った。
「有機農業なんかに興味があってね。インターネットなんかで調べるといろいろ受け入れてくれる場所が見つかるものなんだよ」
 フランスでは司書として働いていたという彼はどこか世捨て人のような雰囲気も漂わせ、本で読んだ70年代のヒッピー旅行者を思わせた。その穏やかな語り口には何か人を安心させるものがあり、話しているうちに自分もなんとなく静かな気持ちになった。僕はインドの人の距離感や彼らのユニークな忍耐強さなど、インドに来て以来感じてきた様々なことを彼に語った。

 ふと身体に何かが当たるのに気づき、見上げると黒い空からぽつぽつと雨が落ちてきていた。インドに来て初めての雨だった。考えてみればこの1カ月近くの間、まったく雨に降られていなかった。インドを去る前日になって降り始めたその雨は、なにか旅の終わりを感じさせるものだった。
 
 雨は弱いままだったので、その後も僕らは椅子に座って話を続けた。
 しばらくすると外から帰ってきたひとりの女の子が僕らに声をかけ、椅子に座って会話に加わった。どこから来たのと訊くと、韓国だと言った。インドを44日間旅し、明日帰国すると言う。名前を訊くと、
「ムーンよ」
 と言った。それが韓国語の名前なのか英語名なのかよくわからなかったので、どういう字を書くのと訊ねると、彼女は空を指さし、
「ほら、あのムーン」
 と言った。空は曇っていたが、月のムーンなのだということはわかった。ソウルに住む25歳の医大生で、流暢な英語を話した。旅が好きで休みのたびにいろいろなところに行っているらしく、京都や神戸にも行ったことがあると言った。
 僕らは共に明日の夜の同じような時間帯に飛行機に乗ることがわかったので、空港までタクシーをシェアして行こうという話になった。
 本当にみんな、いろいろな旅をしていた。いろいろな国の旅行者が、いろいろな場所で交差し、その瞬間を、その夜を共有していた。僕は小雨に当たりながら、本当に旅が終わろうとしているのだなと改めて実感していた。

 深夜近くまで3人でそうして話し続け、それからそれぞれの部屋に戻った。





<Day 24 列車 ~ コルカタ >



               1月29日

 7時頃に目が覚め、下段のシートに下りた。
 車両にやって来たチャイ売りから5ルピーでチャイを買い、それを飲みながら窓の外の景色を眺めた。
 今日も晴れていたが、空気が少し白く霞んでいる。考えてみればバラナシではこうしたスモッグがほとんど発生していなかった。あの街の開放感は、抜けるような青空が毎日広がっていたことも理由のひとつだったのだなと思う。

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 カメラを出して外の写真を撮っていると、昨晩食事を頼んだ彼が自分たちの写真も撮ってくれと言ってきた。彼は20代半ばくらいのなかなかハンサムな男で、彼やその妹の写真を撮ったりしていると、他の面々からも次々に写真を頼まれ、しまいには親戚一同を含めた撮影パーティのような感じになった。

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 彼らは結婚式に出るためにコルカタに行く途中とのことだった。
 話しているうちに君も是非結婚式に来てほしいと言われ、連絡先や式場の場所を教えてもらった。コルカタでの予定が読めなかったこともあり、おそらく行けないと思うと返事をしたが、ここでもまたインド人のオープンさを感じた。そしてもしこの結婚式に参加すれば、それはそれでまた面白い出来事が待っているのだろうなと思った。

 旅はこうした選択の繰り返しだった。
 何がベストかはわからない。時にはやり直しはきかず、時には変更がきく。いずれにせよ、とにかく選択していくしかない。そしてその選択に身をゆだねていくしかなかった。

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 やがて列車がコルカタに到着した。
 家族連れに別れを告げ、ハウラー駅という名のなかなか立派な駅の構内を抜けると、外にはたくさんのタクシーが止まっていた。オートリクシャーはあまり見当たらず、声をかけてくるのはタクシー運転手ばかりだった。それがなにか、この街の大きさを感じさせるようだった。
 コルカタにはサダル・ストリートという安宿が集まる一画があるとのことだったので、ひとりの運転手にそこまでの値段を訊ねると100ルピーで行くと言った。実際どれぐらいの距離があるのかわからなかったが、つまり相場は100ルピーより安いのだろうと思い、少し交渉して80ルピーで行ってもらうこととなった。
 タクシーに乗るのは、旅の初日のデリーの空港以来だった。あのときと同じような黒塗りのタクシーに乗り込むと、車はまず駅の前を流れていた大きな河を渡り、続いて市街地を走り始めた。バラナシに比べれば大分にぎやかだが、いわゆる大都会という感じはしなかった。喧噪のレベルという意味ではデリーやジャイプルと同じくらいだが、どことなく景観が落ち着いているようにも見える。

 15分ほどでサダル・ストリートに到着した。
 タクシーを下りるとすぐに話しかけてきた男がいたので、とりあえず路上にバックパックを置いて座り、休憩がてら彼と話をした。彼は宿に案内すると言ったが、それは必要ないと言って断り、タバコを数本吸った後にひとりで周辺を歩いてみた。
 サダル・ストリートはのんびりした雰囲気の場所だった。車がぎりぎりすれ違える幅の通りの両脇にレストランや宿が立ち並び、路上に出されたカフェの椅子には多くの旅行者たちが座って話をしていた。道を歩く人々も旅行者が多く、この一画全体が旅行者の小さな集落かなにかのような感じだった。それに心なしかアジア人の比率が多いようにも見えた。
 僕は何軒かまわった後に、パブの入った建物の2階にあった「スーパー・ゲストハウス」という宿に部屋を取った。白を基調にした小奇麗な部屋で、値段は650ルピーとそれなりにした。

 バックパックを置いて外に出ると、さっき話しかけてきた男にまた会った。
 宿はもう決まったよと言うと、それならチャイでも飲もうかという話になり、近くのチャイスタンドに行ってチャイを買った。
 細い路地に置かれていたベンチに座り、チャイを飲みながら彼と世間話をしていると、
「あのーすみません」
 と日本語で声をかけられた。視線を上げると日本人の男が2人と、女が1人立っていた。そして声をかけてきた男はなんと、バラナシのインターネットショップで日本語オンリーでプリントアウトをし、駅でも日本語オンリーでチケットを予約していたあの彼だった。もうひとりは彼と駅で一緒にいた女の子で、もうひとりは見た記憶のない、これも20代半ばか後半くらいの男だった。
「ボクら今日コルカタに着いて宿を探してるんすけど、どっかお勧めとかありますか?」
 そう訊ねられ、いや自分も今日着いたばかりなんだと答えた。
「マジっすかー。なんか長くここにいるのかと思いましたよー」
 バラナシで一方的に見ていたときは正直チャラそうな男だなと思っていたのだが、話してみると彼はわりと素直そうな性格をしていた。バラナシで何度か君を見かけたよと言うと、
「マジっすかー。バラナシさいっこうっすよねー!」
 と言い、コルカタに何日か滞在した後はまたバラナシにUターンしようと思っていると言った。
 ちなみににどんな宿を探してるのと訊いてみると、
「できればドミトリーがいいです」
 と彼は言った。僕はふと思いついて、一緒にチャイを飲んでいた男に何かいいところはあるかと訊いてみた。すると彼はある、と言って歩き始めた。どんな宿か興味があったのと、この男が万が一怪しい人間だったら困るなと思い、僕も一緒についていくことにした。

 男が案内した宿は、サダル・ストリートの角を曲がって50メートルほど行ったところにあった。階段を上がった2階が入口になっており、中に入ると比較的広い空間にたくさんの2段ベッドが並べられていた。
 考えてみればこの旅では一度もドミトリーに泊まっていなかった。シングルでも十分安かったというのがその主な理由だったが、久しぶりにドミトリーの中に入ってその空気を感じると、なんとなく自分もドミトリーに泊まりたい気分になってきた。今晩は宿泊代をすでに払ってしまったが、インド最後の宿泊となる明日はどこかのドミトリーで過ごすのもいいかもしれないなと思った。
 連れてきた彼にどうかなと訊くと、よさそうなのでここにしますと言うので、それじゃあよい旅をと言って別れた。

 宿を出てまたサダル・ストリートを散歩していると、別のインド人が声をかけてきた。
 まだ20かそこらの若そうな男で、口ひげを生やし、金のネックレスをつけ、黒字に「中央大学」と白い文字でプリントされたTシャツを着ていた。チンピラくずれのような、いかにもテキトーそうな感じの男だったが、ついてくるので歩きながら話をした。自分には日本人の彼女がいると言うので、どうやって知り合ったのと訊くと、彼女はマザーハウスでボランティアをしているのだと言った。

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 マザーハウスというのは「カルカッタ(コルカタの旧称)の修道女」として知られたマザー・テレサが貧しい人々に奉仕するために作った施設で、もはや回復の見込みのない人々などを引き取ってその死を看取っていることから「死を待つ人々の家」とも呼ばれている場所だった。この「中央大学」の彼によると、そこでは多くの日本人がボランティアとして働いているのだと言う。
 君もそこで働いているのかと訊くと、自分はそういうことはしない、とあまり興味がなさそうに言った。自分は親戚が店をやっているのでそれを手伝っていると言ったが、要はこのサダル・ストリートをブラブラしながら旅行者に声をかけて店に連れていくのが彼の仕事のようだった。しかもそれすらあまり熱心にやっているようには見えず、僕について歩きながらビールを飲みに行こうとか、どこかに遊びに行こうとか誘ってくるのだった。
 彼は名前をワシムと言い、自分はイスラム教徒だと言った。これまでヒンドゥー教を信仰するインド人には数多く会ってきたが、イスラム教徒のインド人と話をしたのは初めてだった。もっともビールを飲もうと言ってくるあたり、あまり熱心な信者ではなさそうだったが。
「どこかこのへんに面白い場所はない?」
 と訊ねると、それならニューマーケットはどうだと言ってきた。ニューマーケットというのはこの近くにある市場のような場所らしい。面白そうだと思ったので、行ってみることにした。

 ニューマーケットはなかなか活気のある場所だった。
 まず行ったのは天井の高い倉庫のような広い空間で、そこでは解体された肉がいくつかのテーブルにどさっと載せられ、それを人々が包丁でさばきながら売っていた。複数の肉屋が集まったようなその空間は、観光客相手というよりは、地元の人の買い出しの場といった印象だった。

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 そこを抜けると今度は土産物屋がひしめき合うように並ぶ一画があった。
 ワシムの親戚の店もその中にあるらしく、連れられてその店に行ってみると、そこは紅茶の葉っぱや置き物などを売る店だった。人のよさそうな小太りの中年のおじさんがカウンターに立っており、彼がワシムの親戚のようだった。ちょうど帰国してからもチャイを飲みたいと思っていたので、僕はそこで自分と友人のためにお茶の葉を少し購入した。小太りのおじさんは測り分けたお茶の葉をいくつかの袋に詰めながら、夕方になったら仕事が終わるからよかったらその頃にまた店に来なさいと言った。

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 その後はまたワシムと一緒に近くをぶらぶらした。
 「いつか日本に行くつもりだ」、「女は日本人が最高だ」などと調子よく話し続ける彼の相手をしつつ、僕らはやがてニューマーケットを出て、サダル・ストリートに抜ける路地に入った。
 数十メートルほど歩くと、路上で立ち話をしていたひとりのおじさんがワシムを見てなにやら激しい剣幕でわめきたて始めた。
 どうやらおじさんは彼の知り合いのようだった。何事が起きたのかとしばらく眺めていると、おじさんはいきなり彼の頬を思いっきり平手で引っ叩いた。しかも1発では終わらず、4発、5発と彼の頬を張り続けた。
「ウェイト、ウェイト!」
 慌てて止めに入ると、ワシムはいやいいんだと言い、おじさんとは視線を合わさずに行こう、と僕をうながした。
「こいつは詐欺野郎だぞ!」
 おじさんが僕のほうを見て叫んだ。
 何が起きているのかよくわからなかったが、僕らは集まってきたインド人や観光客の中から逃げるようにその場を立ち去った。

「オレはあいつに2000ルピー借りてるんだ」
 しばらく歩いた後に彼が言った。おじさんに引っ叩かれたとき、僕は彼が逆上して殴り返すのではないかと思ったが、彼の反応は思いのほか大人しかった。すっかり勢いのなくなった彼を見ながら、やっぱりこいつはテキトーな生活をしているのだろうなあと思ったが、まあ元気を出せ、借りた金は返さないとダメだぞ、とありきたりな慰め言葉をかけた。
「アンタ2000ルピー貸してくれるか?」
 ふっと振り向いた彼にそう訊かれ、貸すわけないだろうと言うと、そうだよなと彼は言い、また前を向いた。

 夕方になり、再びニューマーケットにあるワシムの親戚の店に行った。
 小太りのおじさんは仕事が終わったので、カーリー寺院に案内してあげようと言った。コルカタでは有名な観光場所だと言うので、それならと行ってみることにし、僕はおじさんとワシムと3人で地下鉄に乗り、数駅離れた場所にあるという寺院に向かった。
 おじさんは椅子に座り、僕とワシムは少し離れたところに立って電車に揺られた。
「俺のせいだから仕方がないんだ。そうじゃなかったら殴り返していたさ」
 と相変わらず意気消沈した様子のワシムは言った。

 夕暮れ時のカーリー寺院は多くの人で混み合っていた。
 寺院の中に入るための列に少し並んでみたが、その人混みになんとなく疲れを感じた僕は、列から離れて外から寺院を眺めることにした。

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 寺院のまわりには様々な店が立ち並び、路上では小さな女の子たちが石けりのような遊びを行っていた。暮れていく太陽をバックに遊びに興じる彼女たちの姿をしばし眺めた後、僕はもう満足したからそろそろ帰ろうと2人をうながした。移動の疲れからなのか、なにか身体に粘りがないように感じた。

 地下鉄の駅で電車を待っていると、また少し疲れを感じた。ワシムが今晩ビリヤードをやりに行かないかと言ってきたが、お前金ないだろと言い、とりあえず今晩は宿に戻ることにすると答えた。
「あいつに2000ルピーを返したら、オレは言ってやるんだ。二度とオレに話しかけるなって。あいつはオレを叩いた。金のために人を叩くやつなんか、もう話さなくたってかまわない」
 ワシムはいまだに叩かれたことを気にしているようで、何度かその話題を持ち出した。

 宿に戻ると激しい疲れを感じ、ベッドに横たわった。
 身体が痛く、少し熱があるようにも感じた。旅の終わりが近づいたことで気が緩み、風邪でも引いたのだろうか。
 時刻はまだ6時半だったが食事に出かける気力が起きなかったので、カバンに入っていたチョコレートを少し食べただけで、そのまま眠りについた。





<Day 23 バラナシ >



               1月28日

 朝方になるとようやく病室への人の出入りが途絶えた。
 2時間ほどゆっくり眠って目覚めたトーコちゃんはかなり元気になり、身体の寒気もすっかり消えたようだった。
 普通に病院内を歩き回ることもでき、昼過ぎになっても容態は相変わらずよかったので、今度こそ本当に回復したのかなと思った。ドクターに訊いても問題はないと言い、看護師も今日には退院できるはずだと言う。
 ドクターが退院後のための薬を用意してくれるようだったので、僕らは病室で話をしながら退院の正式許可が下りるのを待った。

「小さいころからインドの怪しさに魅かれてたんですよね」
 トーコちゃんはインドに興味を持ったきっかけや、以前インドに長期滞在した時のエピソードなどを身の上話をまぜながら話した。過去に大きな病気をして手術などもしているようで、今回の旅にはやはりそれなりの覚悟を持って出てきたようだった。多分これがこうして旅できる最後のチャンス、という昨晩の言葉が思い出された。
「なんでバラナシにいたいんでしょうね。なんかいてしまうんですよね……」
「プシュカルよさそうですね……」
 このようなことにはなったが、彼女はこのまま帰国せず予定通り3月までインドに滞在するつもりのようだった。僕もまた口には出さなかったが、そうしてほしいと願った。それはその身を思えば無責任な願いかもしれなかったが、彼女はなんらかの悲しみを心に抱えている人のように思えた。本当にこれが最後になってしまうのなら、後悔のない旅をしてもらいたかった。

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 数時間が経ってもなかなか退院の許可は下りなかった。
 看護師をつかまえて訊ねても「あと30分」「あと5分」といった言葉が繰り返され、気がつくと列車の時間が近づいてきていた。
 出発時間は4時25分だった。僕は3時40分まで待ち、それでもドクターが戻ってこなかったので行くことにした。
 退院を見届けられなかったのは残念だったが、急かすようなことではないのでこれは仕方がなかった。病室の外まで出てきた彼女に気をつけてねと言い、別れの挨拶をした。彼女はインドの人たちがよくやるように、両手を合わせて頭を下げ、僕を見送ってくれた。

 リクシャーをつかまえ、駅に向かった。
 渋滞に少しつかまったが、出発10分前となる4時15分に駅に到着し、中に入って電光掲示板を見た。
 僕の列車は「パンジャブ・メイル(Punjab Mail)」という名前の便だったが、掲示板を見ると「17:25」という表示が出ている。午後5時25分。つまり1時間遅れているということだ。ただ気になったのはその便の番号が「130006」と書かれており、僕の予約したチケットの番号は「130010」となっていたことだった。とはいえ掲示板に他にパンジャブ・メイルは見当たらなかったので、まあこれに違いないのだろうと思った。
 僕は発券をしてもらうためにチケットオフィスに行った。
 時間は4時25分になろうとしていたが、僕は焦ることなく椅子に座っていた男からチケットを受け取った。
「この列車は遅れてるんだよね?」
 念のため訊いてみると、そいつはエンクワイアリ(情報窓口)で訊いてくれと男は言った。
 近くにあったエンクワイアリに行って同じ質問をすると、カウンターにいた男は僕のチケットを見るなり叫んだ。
「ゴー! プラットホーム8番だ! ゴー!!」
 僕は走り出した。
 構内を走り、階段を駆け下りて8番ホームに出た。
 ホームに電車はなかった。
 間に合ったかと思い、ホームにいた人に訊ねてみた。
「ああ、その列車なら2分前に発車したよ」
 まさかと思い、別のひとにも訊いてみたが同じことを言われた。
 本当に乗り過ごしてしまったようだった。やはりあの番号違いには意味があったのだ。昨日は2時間45分も遅れただけに、今日も時間通りには来ないだろうとどこかで油断していた。まさか今日に限って時間通りに到着するとは…… 愕然としたが、列車が行ってしまった以上もはやどうすることもできなかった。
 まあこうなってはジタバタしても仕方がない。とにかくチケットオフィスに行って次のチケットを押さえることにしよう、と思いながらホームの階段を上っていると、ひとりのインド人の男が話しかけてきた。
「列車に乗り遅れたんですか?」
「そうだよ」
「ならムガル・サライで追いつけます。あの列車はムガル・サライで1時間停車するんです」
 思わぬ情報だった。彼はどうやらオートリクシャーの運転手らしく、そのムガル・サライという駅まで連れていってくれると言う。
「本当に追いつけるのか?」
「追いつけます」
「いくらで行く?」
「300ルピーで」
「そいつは高い」
 この期に及んで僕は反射的にそう言ってしまった。なんにせよこの列車を逃してしまえばそれ以上の損失をすることは確かだったので、僕は運転手に条件を出した。
「もし間に合ったら300払う。もし間に合わなかったら払わない。それでもいいか?」
 運転手は同意した。そして商談がまとまった瞬間、彼はレッツゴーと言って走り出した。

 駅の外で彼のリクシャーに乗ると、車は全速力でバラナシの街を後にした。
 やがて渋滞につかまったが、ここで彼はこれまでインドで見せつけられてきたリクシャー運転手の本領をいかんなく発揮した。クラクションを鳴らし、右に左にハンドルを切りながら、とにかく車と車の隙間に入り込む。車線の概念がないのでたとえ前方に3台並んでいようが、4台並んでいようが、関係ないのだった。少しの隙間さえあれば彼はそこにリクシャーの頭を突っ込ませ、じわじわとその隙間をこじ開け、1台分前に出る。そしてさらに次の壁もそのようにして突破していく。スペースがあれば歩道の上だってどんどん走る。対向車線にもはみ出す。その運転はもはや芸の域に達しようかというものだった。
 僕はそうした運転手の技術に感嘆しながら、同時にもう流れにまかせようという気になっていた。もし追いつけなければムガル・サライで一泊すればいいだけの話だ。最悪コルカタには31日までに到着すればいい。なるようになるだけだと思うと、むしろ今の状況が面白く感じられてくるのだった。

 リクシャーは5時15分にムガル・サライの駅に到着した。
 運転手と一緒に駅の中に駆け込み、列車の状況とプラットホーム番号を調べようとした。その様子を見たひとりの男が話しかけてきたので、チケットを見せて訊いてみると、彼はどれどれといった感じでチケットをのぞきこんだが、その瞬間顔色がさっと変わり、僕の背中をバンッと叩いて言った。
「ゴー! クイック!!!」
 僕らは再び走り始めた。運転手が調べてくれたプラットホームに駆け下りると、列車はまだホームに停まっていた。
 どうやら今度は本当に間に合ったようだった。
 乗るべき車両まで案内してくれた運転手が言った。
「アイム・グッド・ドライバー、イエス?」
「ユー・アー・ファンタスティック!」
 僕はそう答え、300ルピーにさらにチップを少し上載せして渡し、礼を言った。

 コルカタ行きの列車もまたアーグラから乗ったのと同じSLシート、つまりA/Cなしの3段寝台だった。寝床の場所は今回もまたアッパーバース、上段だった。
 シートが向かい合わせになった6人掛けボックスには、仲間連れらしいインド人の男が数人座っていた。軽く会釈をして、バックパックを上段の寝台に放り投げると、僕も彼らの中に混ざって座った。
 とにかくこれであとはコルカタに行くだけだ。動き始めた窓の外の景色を眺めながらようやく一息つき、日記を開いてここ数日の出来事などを記し始めた。

 しばらくすると隣に座っている男がなにやら独り言を呟き始めた。発音にクセがあるので最初は何をブツブツ言っているのだろうと思っていたが、やがてそれが英語であることに気がついた。しかもどこかで聞いたような単語が次々と耳に入ってくる。
「アフター・ザ・グッド・ツーアワーズ・スリープ、シー・ルックド・ファイン……」
 彼は僕の日記を声に出して読んでいた。
「アー・ユー・リーディング・マイ・ダイアリー?」
 と言うと、まわりの男たちがわっはっはと笑った。頭の中をなるべく英語にしておくために、旅の間は英語で日記を書いていたのだが、それを横から読まれるとは思わなかった。こら、見るんじゃないと、わざと大袈裟に日記を隠すようなジェスチャーをすると、男たちはさらに笑い、「そう、そうしておくべきだ」と言った。

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 インドでは本当に他人との距離が近いというか、列車内で乗り合わせた人々の間にも壁というものがなかった。横に置いていた新聞を、向かいの席の客が何も言わずに取り上げて読み始めるといったことはこれまでに何度もあったし、日本では当たり前の「ここからは私の空間です」といった概念は基本的に存在していないように思えた。
 また彼らは遠慮なく人をじーっと見る。持っている本だったり、携帯電話についているストラップだったり、何か興味深いものを見つけると、とにかくじーっとそれを見ていたり、挙句の果てにはおもむろに手に取ったりする。もちろん何の言葉も交わしていない人がだ。その視線や行動に気づいたこっちが見返しても微動だにしない。やがて「これはなんだ」と訊いてくるときもあったし、そのまましばらくした後に黙って立ち去るときもあった。別に不自然なことをしているという自覚はないようだった。そのうち僕にもそのクセがうつってきて、何か気になるインド人がいるとその様子をじーっと眺めるようになった。彼らは見ることを気にしないのと同時に、見られることも気にしないということがわかってきたからだ。
 いずれにせよ僕は日記を書くことを諦め、彼らと話をしながら時間を潰すことにした。


 やがて男たちはどこかの駅で降りていき、代わりに家族連れが乗ってきて入れ替わった。外はすでに暗くなっていた。僕は梯子を使って上段シートに登り、アーグラで買ったアーミー毛布を取り出すと、横たわって少しうつらうつらした。

「いや、バブル期の日本はすごかったんだよ」
 ふいに近くから日本語が聞こえてきた。
 どうやら壁をはさんだ反対側のボックスに日本人がいるようだった。そしてああ、さっきの彼だなと思った。少し前にトイレに行ったときに、ひとりの日本人と会って軽く挨拶を交わしていたのだ。眼鏡をかけて丸い顔をした、人のよさそうな男性だった。
 彼はどうやら日本人の女性と一緒に列車に乗っているらしく、彼女に対して話す声が壁を通してそのまま聞こえてきた。
「チアキちゃんにあのバブル期の日本てのを経験させてあげたかったなあ。あれは本当に面白い時代だったよ」
 トイレで会ったときは自分とさして変わらない年齢のようにも見えたが、バブル期という話の内容から想像するに彼は40代くらいなのだろうと思われた。そしてチアキちゃんというのはそれに比べて若い子なのだろうな、一体どんな関係なのかなと、話を聞きながらつい余計な想像をした。
 そんな風にして会話を聞いていると段々腹が減ってきた。考えてみれば朝からろくに食べていなかった。それに空腹を感じた理由はもうひとつあった。下からカレーの匂いが漂ってきていたのだ。
 シートから身を乗り出して下を見ると、さっき乗ってきた家族連れがカレーとチャパティを食べていた。どうやら横になっているうちに、例の食事売りがやって来たらしい。僕は下にいるひとりの男に声をかけ、自分もそれがひとつほしいのだがとジェスチャーで頼んだ。
「アイム・ハングリー」
 とお腹をさするような動作をすると、彼は了解したという風に頷いた。
 食事はすぐに届いた。しかし持ってきた男に金を払おうとすると要らないという。はじめは最初に声をかけた男が払ってくれたのかと思ったが、やがてそうではないことがわかってきた。食事を持ってきた男も含め、彼らはひとつの家族か親戚か何かだったのだ。彼らはいくつかのシートに別れて座っており、自前で用意した夕食を分け合って食べていた。僕は厚かましくもそれをくれと言ってしまったというわけだった。
 これは申し訳ないことをしたと思ったが、すぐにいや素直にいただくことにしようと思い直した。彼らが無理をする風でもなく、自然に僕の分を届けてくれたということもある。そして何よりこれがインドの距離感なのだということを僕自身が受け入れ始めていた。もちろんそれに甘えすぎるのはよくないと思うが、僕はもっと食べろとチャパティを勧めてくるおばさんに遠慮なくお代わりを頼み、満腹になるまで美味しい夕食をいただいた。
 食べ終えてまた上段に登り、顔を出して「アイム・ハッピー」と言うと、下にいるみんながニッコリと笑った。





 

<Day 22 バラナシ >



               1月27日

 朝9時頃に目が覚め、ベッドに横たわりながら昨夜の出来事を考えた。
 オートバイに乗って夜のバラナシを疾走したり、ここ数日いろいろなことが起きているように思えた。自分が何か大きな流れに乗っていて、かつては非日常と呼んでいた出来事の連続が日常に変わりつつあるような、そんな風にも感じられた。

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 今日もバラナシはいい天気だった。
 部屋のテラスに出ていつものようにガンジス河を眺め、宿の向かいの敷地に集まっている牛たちを眺めた。 
 病院にはいつ行こう……
 コルカタ行きの列車は午後5時発だった。僕は少し考え、病院から直接駅に向かうことにした。

 1階に下りていくとデッキチェアにマネージャーが座っていた。
 昨日の礼を言って自分も椅子に座ると、彼は今日も仕事の話をした。
「俺はこの宿をもっとよくしたい。どうすればよいか旅行者の視点からアドバイスをくれ」
 そう訊かれ、どう答えようか一瞬考えたが、このマネージャーには思っていることを正直に伝えてみることにした。
 僕はパレス・オン・ステップスやサンカタ・ゲストハウスの対応など、インドに来て以来経験した様々なエピソードを彼に話し、インドでは人を信頼するのがなかなか難しい、旅行者はみなどこかで疑いを抱えている、だからこそ信頼を大事にすることが長い目で見れば成功の鍵になるのではないかという話をした。少なくとも自分はそういう宿に泊まりたいと思った。
 マネージャーは頷きながらその通りだと言い、いずれこの宿の屋上に簡単なレストランを作り、庭ももう少し整備したいのだと言った。
 マネージャーの名前はバンティーと言った。

 やがてチェックアウト時間である12時が近づいてきたので、宿代の清算をした。
 列車のチケット代も合わせて全部で2000ルピー弱となった。部屋に戻って荷造りをし、病院に行くまでの間バックパックを預かってもらうよう頼むと、最後にもう一度バラナシを散歩しに出かけた。

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 インターネットショップでメールをチェックすると、ロバートから返信が届いていた。送ったのは昨日の夜のようだった。

"デリーに着いた。あの娘のことは気の毒に思うし、君のインド最後の日々がこのような形になったのは残念だが、これも何か意味があることなのかもしれないな。俺は明日の午前9時の飛行機でデリーを発つ。最後にもう一度インドを目に焼き付けて帰国するつもりだよ"

 そう彼は書いていた。午前9時の飛行機ということは、今頃はちょうど飛行機に乗って飛んでいる頃だろうと思った。
 
 その後はダシャーシュワメード・ガートに行き、タバコをふかしながら石段に座って河を眺めた。

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 今日もまた結婚式があるらしく、着飾った人々がガートに向かって下りてきた。その様子を見ながら幸せとはなんだろうと考えた。
 そして自分はやはりまたここに戻ってきたい、と思った。
 前回長期滞在したときは笛を習っていたというトーコちゃんも、シタールを習っているというリネも、みんなバラナシにいたいのだ。ここにいる理由がほしいのだ。
 帰国した時に、この場所と日本での世界がどのようにつながるのだろう。恋愛も、生きることも、ここではより素直でシンプルに思えた。素直でシンプルで何が悪いのだろう?
 
 昼頃にロード・ビシュヌに戻った。
 近くのレストランからターリーを出前で届けてもらい、60ルピーという値段のその大皿料理を庭の椅子に座って食べた。
 庭にいたオロや子犬と遊んだりしているとリネが帰ってきたので、今日バラナシを発つことを告げ、アドレスを交換した。
「……私は一体いつまでバラナシにいるのかしら?」
 リネは独り言のようにそう呟いた。彼女はバラナシの後どこに向かうべきか決めかねているようだった。
 マネージャーのバンティーは列車の出発が5時だから、渋滞が発生する可能性も考えて3時半には病院を出たほうがいいと言った。僕は了解し、預けていた荷物を受け取って彼と握手をした。彼にはいくら感謝してもし切れない気がした。手を振って見送る彼に手を振り返しながら、僕はバックパックを背負ってロード・ビシュヌの門を出た。

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 シヴァ・ゲストハウスに立ち寄って今日バラナシを去ることを告げ、そこから大通りに出てオートリクシャーを拾った。

 これでこのあたりの風景も見納めだと、やや感傷に浸りながら車に揺られていると、少し走ったところで運転手が速度を緩め、車の調子が悪いというようなことを言い始めた。
「ディス・イズ・ガタガタ」
 ガタガタ、とそこだけ彼は日本語で言った。そしてそのまま道をそれて路地に入り、小さな修理工場の前でリクシャーを停車させた。
 彼は工場のおやじと何やら話し始め、僕はリクシャーに座ったまま話が終わるのを待った。リクシャーが壊れたと言って旅行者に修理代を要求するというのも、彼らの手口のひとつだと聞いていた。時計を見ると大分時間が経過しており、このままだと病院にいられる時間がなくなりそうだった。どうせ壊れてなんかいないんだろうと思っていた僕は何度か運転手に早く行こうと言ったが、運転手は「ガタガタ」と繰り返し、修理が必要なのでいくらかの金が必要だと言う。
「俺は出さないよ」
 そう言うと、それでは車は動かせないと言ってまた工場のおやじと話をし始める。それは修理の相談をしているというよりも、単に世間話をして時間を稼いでいるようにしか見えなかった。僕は段々苛立ってきて、
「こんなことをしている時間はないんだ!」
 と自分でも驚くような声で怒鳴ってしまった。すると運転手は慌てたように「オーケー、オーケー」と言って、すぐにリクシャーを発進させた。

 ようやく病院に到着し、時計を気にしながら病室に行った。
 トーコちゃんの容態は再び悪くなっていた。
 看護師やドクターたちが次々とやって来て、また注射を打っていた。彼女は寒いと言って身体を震わせ、注射をされることを恐れた。ぜんそくの症状も出ているようで、咳もしていた。僕は看護師やドクターに状態や薬の必要性を訊ねながらも、基本的には横の椅子に座ってその様子を見守るしかなかった。ホルモン注射が原因かもしれないとのことだった。
 トーコちゃんはやっぱりインドに来たのは間違いだったのかもしれないというようなことを言い、
「でも多分これがこうして旅できる最後のチャンスなんで…」
 と言った。
 
 そろそろ病院を出なければいけない時間になっていた。
 僕はトイレに行った際に、この状態の彼女を残して去ることがよいことだろうかと自問した。答えは「ノー」だった。そして今日バラナシを去るのはやめることにした。

 ところが1時間ほど経つと彼女の容態は大分安定し、震えも収まったようだった。やはり単なる薬の副作用か何かだったのかもしれない。のど元過ぎればなんとやらという気もしないでもなかったが、様子を見ていると大丈夫のような気もしてきた。今から出ればまだギリギリ間に合うかもしれないと思い、彼女も大丈夫なので行ってくださいと言うので、やはり今日のうちに出発することにした。
 僕は上半身だけ起こした彼女と握手をし、病院の外に出た。

 時刻は4時40分になっていた。
 リクシャーに乗って駅に向かいながら、はたして本当にこれでよかったのだろうかと考えた。発車時刻である5時には着けそうもなかったが、インドの列車は遅れることがほとんどなので、間に合う可能性はまだ十分にあるだろうと思った。しかしどこかで間に合わないほうがよいのではとも思っていた。
 もし間に合わなかったら、それはここに残れという意味だ。僕は勝手にそのように解釈した。
 バンティーが言った通り道は渋滞していて、駅に着いたのは発車時刻から20分遅れる5時20分だった。

 駅に入り、電光掲示板を見た。
 やはり列車は遅れていた。それも2時間45分という大幅な遅れで、発車時刻は7時45分となっていた。
 僕はプラットホームに行き、地べたにバックパックを下ろして座った。
 ホームは多くの乗客と、どうやって入ってきたのかオートバイや自転車それに牛たちによって溢れていた。ホームに寝そべる牛を眺め、近くにいた少年のグループと会話をしながら、もう一度これでよかったのだろうかと考えた。
 そしてふと、トーコちゃんは英語がそれほどうまく話せないのだということを思い出した。彼女のコミュニケーションは英語とカタコトのヒンドゥー語で、それは普通に旅行をする分には問題ないレベルであるように見えたが、病院で看護師やドクターに自分の意思を正確に伝えるとなるとまた話は別だった。外国の病院で、このような状況にひとりでいることが心細くないわけがない。自分にも予定があるとはいえ、所詮は気ままな一人旅に過ぎない。このような状態の女性をひとりにすることを肯定できるほどの理由がはたしてあるだろうか?
 ない、というのは心の中ですぐに答えが出た。しかしそれでも僕は駅のホームで列車に乗る未練を感じてぐだぐだし続けた。
 僕はもうひとつ賭けのようなものをしてみることにした。
 チケットオフィスに行ってみよう、そしてもし明日のコルカタ行きのチケットが取れたなら、それは残れという意味だ……

 駅のチケットオフィスは旅行者でごったがえしていた。
 複数あるカウンターの前では、今日のチケットはないと言われたフランス人の女性がパニックになって何やら叫んでおり、その横では日本人のカップルがコルカタ行きのチケットの有無を訊ねていた。
コルカタ行き、オーケー? 早いやつがいいんだけど?」
 カップルの男のほうが日本語でスタッフに話しかけており、なんだか聞き覚えがある声だと思ったらいつだかインターネットショップでプリントアウトを頼んでいたあの男だった。ここでもやはり彼はほぼ日本語オンリーで会話を行い、それでいてしっかりとチケットを押さえているようだった。
 そんな様子を眺めながら列に並んでいると、やがて自分の番が来た。
 明日のチケットはまだ空いていた。僕は100ルピーを払って今日の分をキャンセルし、明日の午後4時25分発の列車を予約した。

 リクシャーをつかまえ、病院に戻った。
 病室に入っていくと、トーコちゃんは上半身を起こしてドクターと会話していた。相変わらず容態は安定していそうで、やはり取りこし苦労だったかなと戻ってきた自分がなんとなく照れ臭くもあったが、とにかく出発を1日延長したことを彼女に告げた。
 腹が減っていたのでまた病室から電話をかけ、野菜が載った焼きそばとコーヒーを注文して夕食とした。

 夜遅くに女性の看護師が部屋に来て、ひとりの日本人が今晩入院することになったと僕らに告げた。
「彼女はひとりだから病室を訪ねてあげて。心細いだろうから」
 といったことを彼女は言い、ふとベッドの脇に置いてあったトーコちゃんの手帳に目を留めた。その表紙には漫画っぽいタッチで描かれたシヴァ神のステッカーが貼ってあった。インドのものがとにかく好きらしいトーコちゃんの私物には、シヴァやガネーシャなど、様々な神様のステッカーがたくさん貼られていた。看護師はニッコリ笑ってステッカーに軽く指で触れると、目を閉じて祈るような動作をした。漫画のような絵に対しても真剣に祈るその姿はどこか可愛らしくもあり、しかしインド人の信仰心を強く感じる光景だった。
 トーコちゃんは起き上がれるようになっていたので、僕らはそのもうひとりの日本人の病室を訪ねてみることにした。
 
 廊下を少し歩いたところにあったその病室では、日本人の女の子がぐったりとしたままベッドに寝ていた。眠っていたようだったが、僕らが入ってきたことで目を覚ましたようだった。
「大丈夫ですか?」
 と訊くと、
「あんまり大丈夫じゃないです」
 と言いつつ、少し笑みを浮かべた。何か悪いものに当たってひどくお腹をくだしてしまったとのことだった。お互いまったくの初対面ではあったが、外国の病院で居合わせたという状況がなんとなく仲間意識のようなものを生み出していて、こんなときは他人も何もないのだよなと思った。大分辛そうにはしていたが、そこまで心配するような状態ではないように思えたので、しばらく話をしたあとに部屋を出た。

 夜中から朝方にかけてトーコちゃんのぜんそくの発作が出て、また看護師たちがどかどかと部屋を行き来した。咳は苦しそうだったが、ぜんそくに関しては慣れているせいなのか、震えがきたときに比べて彼女は落ち着いていた。
 外が明るくなる頃にようやく発作も収まったので、そこから少し眠った。





<Day 21 バラナシ >



                1月26日

 朝になるとトーコちゃんの容態は大分よくなっていた。
 まだ起き上がることはできなかったが、真っ青だった顔に生気が戻り、話す言葉もはっきりしていた。とりあえず最悪の状態は脱したようだと安心した僕は、また少し病室で仮眠を取り、昼頃まで様子を見た上で一旦宿に戻ることにした。
 夜にまた来るよと言うと、申し訳ないけどいくつか私物を取ってきてもらえませんかと、シヴァ・ゲストハウスの部屋の鍵を渡された。僕は承諾し、病院を出た。

 今日はインドのリパブリック・デイ、共和国記念日とのことで、街にはどことなく陽気な空気が流れていた。天気もよかったので、僕は歩いて宿まで帰ることにした。
 街中にはインド国旗がはためき、国旗の色である緑とオレンジと白の風船などを売る人の姿が目についた。普段はあまり見かけない象なども通りを歩いており、空には凧が舞っていた。僕はなんとなく明るい気分になりながら4キロほどの距離をのんびりと歩いた。

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 ロード・ビシュヌに戻ると、オリバーが庭の椅子に座っていた。
 彼にトーコちゃんの話をすると、実は自分も昨夜からひどい腹痛に襲われ、今朝ドクターに宿まで来てもらったのだと言った。
抗生物質をもらって大分よくなったけど、診察と薬代で600ルピーもかかったよ」
 と彼はややぐったりした表情で笑った。オリバーは今日バラナシを発つことになっていた。
 椅子に座って話を続けていると、外からひとりの女性宿泊客が戻って来て、僕らに声をかけてきた。初めて見る顔だった。
「バラナシから比較的近くて、訪れるのにいい場所はないかしら?」
 そう訊かれたので、僕は自分が行くことをやめたブッダ・ガヤはどうかと勧めた。彼女はアメリカ人で、ロサンゼルスから来たと言った。インドには9月から滞在しているらしく、この宿にも大分長く泊まっているとのことだった。これまで顔を合わせたことがなかったのは、たまたまタイミングが合わなかったからなのだろう。
 名前はリネと言った。歳は20代後半から30くらいだろうか。くりっとした目が印象的な、快活そうな女性だった。インドでは英語を教えたり、シタールを習ったりといろいろやっているようで、3月まで滞在するつもりだという。
 
 やがてオリバーの列車の時間が近づいてきた。
 部屋に戻って荷物をまとめてきた彼と握手をし、これからも互いに連絡を取り合おうと言って別れの挨拶をした。
 バックパックを背負って門の外に出ていくオリバーを見送りながら、またひとり知り合った人間が移動していくなと思った。ロバートもまた、今頃はバラナシの空港に着いているはずだった。
 そういう僕もまた、明日の列車でコルカタに向かうことになっていた。マネージャーが明日の午後5時にバラナシを発つ列車のチケットを取ってくれていたからだ。
 コジマ君もオリバーもロバートもいなくなったし、ちょうどいい頃合いだろうと思えた。唯一気がかりだったのはトーコちゃんのことだったが、今朝の様子を見る限りそれほど心配しなくても大丈夫のように思えた。

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 部屋で少し休んでまた外に出かけようとすると、マネージャーが声をかけてきた。
「今日も病院に戻るのか?」
 そのつもりだと言うと、何時頃に行くと訊いてきた。7時か8時頃かなと答えると、
「なら俺も一緒に行く」
 と彼は言った。予期せぬ申し出だったが、ヒンドゥー語が話せる彼が来てくれるのは正直有り難かった。ヘリテージ・ホスピタルのスタッフの多くは英語をあまりうまく話せなかったので、意思の疎通に結構苦労していたのだ。看護師はまだしもドクターの中にもカタコトしか話せない人間がいることは正直予想外で、英語力という面ではバラナシの街中で観光客を相手に商売している人たちのほうが、よっぽどうまい印象だった。
 僕はマネージャーに8時までには宿に戻ると言い、外に出た。

 いつものようにガートに沿って散歩をした。
 すでに夕暮れが近かった。ガートでは10人ほどの男たちによってクリケットが行われており、それをたくさんの人が石段に腰かけて見ていた。インドではいつでもどこでもクリケットが人気で、ガートや街の路地など、スペースがあれば彼らはどこでもこの野球に似た球技に興じていた。今日は祝日ということもあっていつもより人が多く、30代から40代くらいの大人も交じって楽しんでいた。クリケットのルールは何度見ても理解できなかったが、僕も石段に腰かけてしばらくその様子を眺めた。

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 しばらくそうして眺めた後、再び立ち上がり、さてこれからどこに行こうと思った。
 火葬場が頭に浮かんだが、すぐにその考えを打ち消した。バラナシではすでに死を見た。今晩はバラナシで最後の夜だ。死者よりも生者のイメージを持ってこの街を去りたいと思った。

 僕はまたアルカ・ホテルのレストランに行った。
 ウェイターに料理を注文し、ふと思いついてビールはあるかと訊いてみた。ジャイプルのホテルでミシェルにおごってもらって以来レストランで酒は飲んでいなかったが、この夜はなんとなく飲みたい気分だった。
「アルコールは置いていないんだ」
 そうウェイターは言った。インドでは珍しいことではないので、そうかそれならいいよと言うと、ウェイターはさらに言った。
「でも大丈夫。飲みたいなら調達してくる」
 彼は店の外に出ていき、しばらくしてキングフィッシャーの大瓶を持って戻ってきた。僕は彼に礼を言い、運ばれてきた料理を食べながらビールを飲んだ。
 これがバラナシ最後の夜か……
 目の前のガンジス河を眺めながら、少々感傷的な気分になった。

 食事を終え、すっかり暗くなったガートに下りると、バラナシで一番最初にボートをこいでくれた少年と出くわした。彼とはあの後も何度かガートで会っていて、その都度ちょっとした言葉を交わしていた。
 実は明日バラナシを去るんだと彼に言うと、
「じゃあボートに乗らない?」
 と訊いてきた。
 僕はそのつもりだったのでお願いするよと言い、ガートにいる花売りから赤と黄色の花とロウソクが載せられた紙皿を10ルピーで購入した。
 ガンジス河では紙皿にロウソクと花を載せて流すことで、よきカルマを願うという習慣があると訊いていた。この日は知り合いの子供の命日だったので、僕は知り合いとその子のために花を流すことを約束していた。
 少年にボートの値段はいくらと訊くと、
「お兄さんが値段を決めていいよ」
 と彼は言った。じゃあ30分で40ルピーならどうだろうと言うと、彼はうんいいよと言った。

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 ボートは暗いガンジス河の上にゆっくりと滑り出した。岸辺からはゆるやかな民族音楽のようなものが聴こえ、その音が柔らかなオレンジ色の街灯と混ざり合い、暖かい空気を作り出していた。
「もう少し先に行ってもらえるかな?」
 少年に言い、河の真ん中のほうに向かってボートを進めてもらった。
 水上にはいくつもの赤い灯が浮かび、列を作るようにして流れていた。それは優しい光景だった。僕はロウソクに火を灯した紙皿を左手に持ってボートから身を乗り出し、水面に手を近づけ、そっと紙皿を離した。
 赤く灯った紙皿は手から離れた瞬間にすーっと水の上を流れていき、やがて他の多くの灯の中にまざっていった。僕はこれを約束した人のことを思い出し、昨日の病院での光景を思い出した。そして自分自身がバラナシの持つ、なにか大きな力によって癒されているのを感じた。バラナシはとにかく優しかった。

「僕の写真をくれない?」
 岸辺に向かってこぎながら少年が言った。前回ボートに乗ったときは日中だったので、僕はたくさんの写真を撮った。そのときに彼の写真も撮っていたから、きっとそのことを覚えていたのだろう。僕はいいよと言い、
「住所はある?」
 と訊いた。彼の生活を想像するにメールで送るのは現実的ではない気がしたので、住所があるなら郵便で送ってあげようと思ったのだ。少年はオールから片手を離し、岸辺を指さした。
「あのガートだよ。僕はいつもあそこにいる。だから次バラナシに来るときに写真を持ってきてもらっていい?」
 僕はなんと言ったらよいかわからなかった。この街を自分が次いつ訪れるのか、はたして訪れる日が来るのかもわからなかったが、ただ祈りを込めるように「オーケー」とだけ返事をした。
 
 ボートから下りた後はシヴァ・ゲストハウスに行った。
 マネージャーにトーコちゃんの容態を説明し、私物をいくつか取って届けたいのだがよいかと訊ねた。彼は了解し、一応君のパスポートのコピーだけ取らせてくれと言った。僕はパスポートを彼に渡し、2階にあった彼女の部屋に行って頼まれていた物をピックアップした。
 再び1階に下りると、マネージャーは僕にパスポートを返し、君に感謝するといった意味の言葉を言い、それから幾分厳しい表情になって言った。
「彼女は日本に帰るべきだ」
 彼女がぜんそく持ちだということもマネージャーは知っているようで、インドの空気はよくないから退院したらすぐにこの国を去ったほうがいいと言った。確かにそうかもしれないと思った。しかしそうはわかっていても、あれだけインドが好きで、父親に縁を切ると言われてもなおインドにやって来た彼女にここを去れというのは、なにか残酷なことのようにも思えた。

 シヴァ・ゲストハウスを出た後は、ベンガリー・トラ通りをロード・ビシュヌに向かって歩いた。
 そしてもう少しで宿に着こうかというその時、前方からオートバイが走ってきて僕の目の前で停車した。
 見るとロード・ビシュヌのマネージャーだった。
「これから病院に行くんだろう?」
 そうだと言うと、彼は後ろに乗れ、というジェスチャーをした。僕は言われるがままにオートバイの後部座席にまたがった。
「よし、行くぞ」
 彼はそう言い、アクセルを吹かして勢いよくオートバイを発進させた。
 オートバイは夜のバラナシを疾走した。祝祭の日のせいか、通りでは結婚式のセレモニーのようなものが行われていた。オートバイはそうした人々の間や、リクシャーや、牛たちの間をすり抜けながらスピードを上げて走った。もちろんふたりともヘルメットなどかぶっていない。これがインドに着いたばかりの頃だったら、恐れていたかもしれない。しかし何度もリクシャーに乗って彼らのワイルドな運転を経験するうちに、僕はインド人の運転技術にある種の信頼を抱くようになっていた。いや、僕が信頼を抱くようになっていたのはインドという土地そのものだったかもしれない。
「俺はこいつでデリーやダラムシャーラーまで行ったりもするんだ!」
 運転しながらマネージャーが大声で言った。


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 病院に到着すると、マネージャーは1時間後に病室に行くから先に行っていろと言い、どこかに去っていった。
 2階に上がって病室に入ると、トーコちゃんは目を覚ましていた。
 元気そうだった。顔色も今朝と変わらず悪くない。やはり大丈夫そうだと安心し、宿から取ってきた私物を渡して話をした。

 やがてマネージャーがやって来たので、僕は彼をトーコちゃんに紹介した。
 病室からは簡単な軽食が注文できるようだったので、僕らは何か注文することにした。なんでも好きなものを頼んでくれとマネージャーにメニューを渡すと、彼は僕が食べたことのないライスをベースにした料理を頼んだ。僕とトーコちゃんは飲み物を頼み、それらを食べたり飲んだりしながら3人で話をした。
 マネージャーは自分の仕事の話をし、自分は外国で働きたいのだと言った。
「外国では7時間働いたら7時間分の金をもらえるだろ? インドでは24時間働いたってもらえる金は変わらないんだ」
 彼はそう言い、その内タイに行こうと思っていると言った。オートバイに乗っている最中もデリーやダラムシャーラーに行ったことがあると言っていたが、彼は宿の運営をしながらいろいろな場所に出かけているようだった。ネパールにも行ったことがあるらしく、カトマンズは騙されてひどい目にあったので嫌いだがポカラはいい場所だと言った。当然のことだがインド人も騙されることがあるのだなと思うと、何か面白かった。トーコちゃんもまた、そんな話を興味深そうに聞いていた。
 やがて夜も遅くなったので、僕たちは再び宿に戻ることにした。トーコちゃんには明日バラナシを発つことになったけど、その前にもう一度来るよと言って病室を出た。

 外に出て、オートバイの前に来るとマネージャーが言った。
「帰りはお前が運転して帰るか?」
 もちろん、と言いたいところだったが、残念なことに僕はスクーターしか運転したことがなかった。今ここで自分が運転できたらどれだけ最高だろうと思いながら、また彼の軽快な運転に揺られて宿に帰った。