<Day 2 デリー >


               1月7日
                  
 デリーから先どこに向かうかは決めていなかった。
 昨日メインバザールを歩きながら、ふらりと旅行案内所に入ってみたのも、この先のルートを決めたいという思いがあったからだった。
 帰りの便はデリーではなく、コルカタ発にしていた。1月21日の日付で予約していたので、僕には15日間の時間があった。
 デリーはインドの北西部に位置し、コルカタは東のはずれに位置しているので、最終的に東に向かう必要があることは確かだったが、どのようなルートでそこに至るかということについては、デリーに着いてから考えようと思っていた。

 部屋で地図を取り出して眺めると、漠然とした候補地が浮かび上がってくる。
 ここからコルカタにまっすぐ向かうのであれば、アーグラ、バラナシ(バナーラス)、ブッダガヤなどを経由していくというルートが一般的だろう。インド旅行の黄金ルートと言ってもよいかもしれない。アーグラにはタージ・マハルがあり、バラナシはガンジス川のほとりにあるインド最大の聖地であり、ブッダガヤはブッダが悟りを開いた地として知られている。

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 しかしせっかくインドの西部にいるのに、すぐに東に向かってしまうのはどうも勿体ない気がした。
 デリーから北に行けばヨガの聖地として外国人に人気のあるリシュケーシュや、チベットより亡命中のダライ・ラマが住んでいるというダラムシャーラーがある。また南に行けば大都市ムンバイ(旧称ボンベイ)や、ヒッピーの聖地と呼ばれたゴアがある。
 スピリチュアルな匂いのする北部も魅力的だったが、惹かれたのは南部だった。
 南部の海岸線に位置するゴアは、様々なサブカルチャーの発信地としてよく名前を聞く場所だった。元々はポルトガルの植民地だったことから、西洋とインド文化が融合した独特の雰囲気を持ち、そこは各国からやってきた旅行者たちがビーチサイドで酒を飲み、踊り、享楽に身を浸す場所だという。 純粋なインド文化とは違うかもしれないが、惹かれるものがあった。
 またゴアからさらに海沿いに南下すると、そこにはコーチンという町がある。友人に仕事でインドをよく訪れる男がおり、彼に話を聞いたところ、今まで行ったインドの場所の中で一番よかったのがコーチンだと答えたのだ。 コーチンもまた海沿いの町だが、その近くには川や運河などが多く存在しており、そこを小さなボートで下ることができるのだという。
 それは「バックウォータートリップ」と呼ばれ、南国の植物に囲まれながら悠々とボートに揺られるその体験は、しておいて損はないものだとその友人は言っていた。
 また、しつこく旅行者に迫ってくる人間が多い北部と比べ、南部のインド人は気質も大人しくておおらかだという。

 ムンバイ、ゴア、コーチンと西の海岸線をつたってインドの南端まで到り、そこから東の海岸線をつたってコルカタまで行くのもよいかもしれない……そんな風にも思えてくる。しかしそれを15日間でできるのだろうか? インドという国の大きさをいまひとつ実感できていない自分には、はっきりとした確信が持てなかった。
 そんなことを考えながらガイドブックをめくっていると、ふいにジャイサルメールという町の紹介が目にとまった。
 ジャイサルメールはデリーから西に行ったところにあり、そのすぐ先はパキスタンという、インドの中でも西のはずれにある町だった。興味を持った理由は、そこが砂漠の町だと書かれていたからだ。元々はパキスタンとの交易で栄えたというが、今ではその交易ルートも途絶え、砂漠の中に忘れ去られたような町として、旅行者が訪れる場所のひとつとなっているという。
 ここも面白そうだなと思った。しかし、ここに行ったら南部の日程がますますきつくなることは容易に想像できた。いや、おそらく両方に行くことは無理だろう。
 地図をながめながらしばらくそんなことを考えていたが、すぐには答えが出そうもなかったので、ひとまず外に出ることにした。
                 
 デリーは朝方もなかなかに冷え込み、吐き出す息が白かった。
 フリースの上にジャンパーをはおり、ニット帽をかぶった状態で、僕はメインバザールの道をあてもなく歩き出した。
 歩いていると、路上でチャイを売っているスタンドのようなものがよく目につく。そうした場所のまわりには大抵数人のインド人たちがたむろしていて、立ったままチャイをすすっている。モーニングコーヒーならぬモーニングチャイといったところだろう。温かい飲み物が欲しかった僕は、そうしたチャイスタンドのひとつに近寄り、チャイを頼んだ。料金は5ルピー、10円ほどだった。
 土を固めたような小さな容器にそそがれたチャイを受け取り、その場に立って飲んだ。その温かさに、ホッとする気持ちになる。
 ちびちびすすりながらタバコをふかしていると、隣で同じようにチャイを飲んでいたおじさんが1本くれないかと言ってきた。いいよと言って渡し、話をしながら2人でチャイをすすり、タバコをふかした。
 おじさんはリクシャーの運転手をしているそうで、朝の始まりはまずこうしてチャイを飲むのが習慣なのだという。それはこのおじさんだけでなく、多くのインド人にとっても同じなのだろうなということが、まわりを見ていて感じられた。まだ朝早いこの時間帯には、昼間や夜に比べると、まだどこかのんびりとした空気が漂っていた。
 この先の旅の計画の話などをしていると、知っている旅行案内所があるからそこに行かないかとおじさんが言ってきた。客を連れて行くことでこのおじさんにマージンが入る仕組みなのかな、などと考えたりもしたが、なにか参考になる情報が得られるかもしれないと思い、連れて行ってもらうことにした。

 案内所は歩いて5分ほどのところにあった。
 中に入ると恰幅がよく、ひげを蓄えた中年のおやじが、自信に満ち溢れたような笑みを浮かべながら現れた。きれいな英語を話すそのおやじに対し、僕はまず南部への旅を考えていることを話し、自分が訪れたい町の名前を挙げて、 このルートを15日間で旅することは可能かと訊ねた。
「まったく問題ない」
 そう彼は言い、テーブルに広げた地図を指差しながら説明を始めた。
「南に行くならまずウダイプルに行くといい、ここは本当に美しい町だ。ここで2日くらい泊まるといいだろう。お勧めの素晴らしいホテルがあるからそこを予約してあげよう。他のホテル? いやいや、ここより素晴らしいホテルなどないから絶対ここに泊まったほうがいい。そのあとはムンバイに1泊して、ゴアに行き、ここでも2泊、そして……」

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 彼の言う通りに移動すれば、確かに15日間ぎりぎりでコルカタに着くことはできそうだった。しかし移動に予想以上の時間を取られることがわかり、一箇所にとどまるのはせいぜい長くても2日ぐらいになる。鉄道の移動だけで丸一日を費やすような区間もあり、地図では近そうに見える町も、やはり実際にはかなりの距離があるようだった。
 気に入った場所にはできれば数日間滞在して、その町の空気をしっかりと取り込みたいと思っていた僕は、やはりこれは難しいかなと思い始めた。
  そのようなことを話すと、おやじは今度は飛行機を移動に取り入れたプランなども提示してきたが、そのような出費をする余裕はなかったし、自分は飛行機が大の苦手なので可能な限り乗りたくなかった。今回は9年ぶりの海外で、飛行機に乗るのも同じく9年ぶりだったということもあり、成田空港のカウンターで怖気づいてやはり引き返そうかと思ったくらいだったのだ。これは自分の精神状態の影響も大きかったが、それを抜きにしても飛行機という選択肢は論外だった。

 おやじには申し訳なかったが、僕がここに来た理由は南部の旅にかかる時間の目安を知りたかったからで、ここでツアーの契約をしたり、 ホテルの予約を取ってもらおうという気はさらさらなかった。それは最初に伝えてあったのだが、どうにか自分の提示するプランに引き込みたいおやじは、これまでに何人もの日本人にこのプランを提示したが、みんなすごく喜んでくれたといったことを話し続けた。
 そしてふいにおやじが言った。
「ワタシは、二ホンにニホンジンのオクサンいますよ。ナマエはオオタ・アキコです」
 その突如の日本語を聞いた瞬間、またか、と思った。
 昨日メインバザールにある旅行案内所に入ったときに、そこのおやじからまったく同じような話を聞いていたのだ。 そのときのおやじの相手は奥さんではなく恋人だったが、相手が日本にいるという点では共通していた。そのときは僕のほうも半信半疑ながら、そういうこともあるのかもしれないなと思ったりしたが、ここでも似たような話が出てきたので、これは日本人を安心させるために彼らが考え出したテクニックなのかもしれない、と思い始めた。
 おやじはその奥さんとインドで出会ったこと、彼女は大阪に住んでいて、近々こっちに呼び寄せることになっているなど、 具体的なエピソードを次々と話し始め、それには単なるでっちあげとも思えないような信憑性があった。昨日の出来事がなければ普通に信じていたかもしれない。

 30分くらいそうして話していただろうか。おやじはこいつは説得しても無駄だと悟ったのか、わりと唐突に話を切り上げて席を立った。しばらく待っても戻ってこないので、まあ終わったのだなと僕も席を立った。
 長々と話をしたし、有益な情報も教えてもらったので、一応挨拶くらいしてから出ようとおやじの移動したテーブルまで行ってみた。しかしおやじは僕に気づいても何ら言葉を発することはなく、こっちを見ようともしなかった。
 客にはならないと判断した以上、彼にとって友好的でいる時間は終わったのだろう。
 そう判断し、入口のところに置いてあったパンフレットをいくつかもらうと、建物の外に出た。

 なにはともあれ、南部は日程的に厳しそうなことがわかった。
 そうなると再び気になってきたのが、本で見た砂漠の町ジャイサルメールだった。よし、あそこに行ってみよう。そのあとは黄金ルートに沿って東に向かおう。そうすれば時間にも少しはゆとりが持てるだろう……そんな風に旅のおおまかなルートを頭に描いた。
 そうと決まればジャイサルメールまでの鉄道の予約をする必要がある。調べてみると、鉄道のチケットはニューデリー駅で買えることがわかったので、今日のうちにチケットを買ってしまうことにした。

 

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(メインバザール)


  チケットオフィスはニューデリー駅の2階にあり、カウンターの前に長椅子が並べられたその部屋には、デリーからどこかへ移動しようとする旅行者たちが集まっていた。西洋人、アジア人、男女問わず様々な国の旅行者がいたが、その中でもよく目についたのは、どういうわけか韓国人のバックパッカーだった。

 僕は少し考え、2日後となる1月9日発のジャイサルメール行きのチケットを購入した。値段は873ルピー、約1700円だった。
 デリーを出発するのは午後5時30分で、ジャイサルメールに到着するのは翌日の午前11時45分になるという。地図で見る限りジャイサルメールはムンバイやゴアよりも大分近いように見えたが、それでも18時間以上の列車の旅だ。やはりインドは広い。こうした距離感は、実際に来てみないとなかなか実感できない。
 いずれにせよ、これで明後日の夕方まではデリーにいることになった。
 ジャイサルメールに向かう列車はニューデリー駅ではなく、その北東にあるデリー駅から出るのだという。デリー駅のある周辺は「オールドデリー」と呼ばれる地区で、そこもまた面白そうな一画だったので、今日の内にオールドデリー地区を散策し、当日迷わないためにも駅の場所を確かめておくことにした。

 駅から北に向けて歩き出し、例のごとくまた勝手に横についてきた若い兄ちゃん(彼は大阪に兄弟がいるらしい)に道を訊いたりしながら少し歩くと、オールドデリーの入口と思わしき場所にたどり着いた。
 このあたり一帯はオートリクシャーよりもサイクルリクシャーの数が圧倒的に多く、コンノート・プレイスやメインバザールと比べて幾分時代が昔に巻き戻されているような、そんな印象を受けた。
 店が並んでいる通りに沿ってなんとなく歩き始めると、ここでは自分に話しかけてくる人間があまりいないことに気がついた。道幅はメインバザールよりもさらに狭く、旅行者らしき者もそれほど多く見かけない。もちろんオールドデリーはガイドブックにも乗っている観光場所のひとつであるから、旅行者向けの商売も多いのだろうが、旅行者向けに完全に特化したようなメインバザールと比べると、ここは普通に暮らすインド人のための町でもあるような印象を受けた。

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  大ざっぱな地図を片手にデリー駅を目指すものの、道がまっすぐでない上に細い道がたくさん入り組んでいるので、やがて僕は方向感覚を失ってしまった。仕方がないので、ひたすら歩けばどこかに出るだろうとてきとうに進んでいくと、ふいに目の前が開け、大きな寺院のような建物があらわれた。
 なんの寺院だろうと思いながら、それを迂回するように歩き、さらにその先の路地に入ってしばらく歩くと、ふいに背後からスピーカーを通した大きな声が聞こえてきた。
 その歌うような声を聞いたときに、そうかあれはモスクだったのかと思い至った。

 気がつくと前方の路地からモスクの方角に向かって、白い帽子をかぶった大勢の男たちが歩いてくる。これから午後の祈りでもあるのかもしれない。インドというとシヴァやガネーシャといった神々を崇拝するヒンドゥー教のイメージが強いが、イスラム教徒の数も多いと聞いていた。
 僕はなんとなく来た道を引き返し、白い帽子をかぶった男たちの流れに混ざってモスクの方角に歩いていった。そしてモスクの前に立つと、スピーカーから流れ続ける悲しく訴えるような、しかしどこか美しくもある声を聴きながら、モスクの中に吸い込まれる男たちの姿をしばらく眺めた。

 その後ようやくデリー駅にたどり着いてその場所を確認した僕は、そこから地下鉄に乗ってコンノート・プレイスへと移動した。初日は宿を探すことに集中していたので、今度は荷物のない状態で散策してみようと思ったのだ。

 地下鉄の駅から地上に出ると、しばし歩いたのちに円形道路の近くで「バリスタ」という欧米や日本にもありそうな洒落たカフェを見つけ、その中に入ってカプチーノを注文した。
 落ち着いた雰囲気の店内で差し出されたカップを受け取り、ゆったりとした一人掛けのソファーに身を沈めると、嵐の中で避難所にたどり着いたような安堵感に包まれた。大分慣れてきたとはいえ、やはりある程度緊張が続いていたのかもしれない。オールドデリーでは比較的話しかけられることが少なかったとはいえ、まわりの人間に対して常に身構えていたことは確かだった。
 そうやってある種疑惑のフィルターをかけてインドの人々に接するようにはなっていたが、同時にインド人は根がいい人も多いように感じていた。
 たとえばメインバザールで出会ったある男は、どう考えても不当に高い値段で僕から金を巻き上げようとしていたが、その理屈のおかしな点を指摘していくと、ある瞬間に彼は「ちぇっ、ばれちゃったか」といった風に照れ笑いを浮かべ、途端に友好的な態度に切り換わった。それからは商売とは関係のない自分の家族や人生に関する話などを始め、さらにはスタンドで僕にチャイをおごってくれた。さっきまでの1ルピーでも多くむしり取ってやろうという態度はなんだったのだと、一瞬呆気に取られたが、あとから考えると、それはインド人の性格というものを非常によく象徴した出来事のように思えた。
 親切だが、お金もできれば儲けたい。
 ある意味シンプルで、彼らはこんがらがっていなかった。
 金を取れなかったら、残念、まあ仕方がない、チャイでも飲むか、なのだ。しかし取れるものなら、取りたい。なぜなら旅行者が何の気もなしに払った金額が、彼の1日分の稼ぎになったりもするのだから。
  本来なら丸1日リクシャーをこぎ続けてようやく手に入るお金を、あるとき1人の旅行者がぽんっと渡していった……その旅行者はあとで与え過ぎたことに気づくかもしれないが、いずれにせよその旅行者にとってはせいぜい数ドル、数百円の差であり、大した損失ではない。そうした経験を一度したリクシャーの運転手が、次の客にもその額を要求してみようという気になるのを誰が攻められるだろう。
 中には金が取れないとわかった瞬間に冷たくなる旅行案内所のおやじのような人物もいたが、僕が出会った人々の多くは、金が取れないと確信した瞬間に友好的になることが多かった。かけ引きが終われば、あとは友人だとでも言わんばかりに。
 日本で自分から不当に高い金を巻き上げようとしてきた人物がいれば、その人物はおそらく「悪い人間」と見なされるだろう。その感覚で見れば、コンノート・プ レイスやメインバザールにいるインド人のほとんどは悪い人間になってしまうかもしれない。しかしそういう捉え方をすると、どうもインド人というのを見誤ることになりそうだ……油断してはいけないと思いながらも、僕は漠然とそんな風に感じ始めていた。

 バリスタを出たあとは、ポストカードを買ったりしながら周辺を歩きまわり、今度はマクドナルドに入ってみた。
 インド独自のメニューなどがあるのかなと期待していると、やはりそこには「マハラジャバーガー」なるものがあり、これがいわゆるビッグマックのような地位を占めているようだった。また宗教的理由からベジタリアンが多いインドだけに、肉を使わないハンバーガーなどもあるようだった。
 せっかくなのでマハラジャバーガーのセットを注文してみた。普通にポテトとドリンクがついて137ルピーと、まあまあの値段。味はなかなかおいしかった。

 マクドナルドを出て、すっかり暗くなった通りを宿に向かって歩き出すと、店の前にいた5歳くらいの女の子が僕のあとについてきた。
 物乞いだというのはすぐにわかったので「ノー」と言って歩き続けたが、いつまでもその子はついてくるのをやめなかった。
 何百メートル歩いただろう、こんなに歩き続けて帰り道がわからなくなったりしないだろうかと少し心配になり、立ち止まってその子の手に4ルピーを握らせた。
 すると女の子は何も言わずに踵を返し、来た道を引き返していった。