<Day 7 ジャイサルメール >


           1月12日 (ジャイサルメール~)

 寝袋の中で浅い眠りを繰り返すうちに、やがて空が少しずつ白み始めた。
 僕は寝袋から這い出ると、すでに起きていたディナが作ってくれたチャイを飲み、同じように起きてきたロバートと一緒に砂丘に登った。
 しばらくすると、地平線からゆっくりと太陽が姿を現し始めた。リンダもやって来て、僕たちは3人で砂丘の上から朝陽を眺めた。
 リンダは太陽が昇ったあとも1人砂丘に残り、そこで座禅を組むようにして座って太陽を見つめていた。瞑想か何かをしているようにも見えた。

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 朝食はトーストにストロベリージャムをつけたシンプルなものだった。
 インド式の朝食が出てくるのかと思っていたのでやや拍子抜けした感もあったが、これはディナたちが旅行者に気を使って西洋式の朝食を用意してくれたのかなという気もした。

 食事を終えると、昨日来た道を引き返し始めた。
 ラクダに乗った瞬間尻に痛みを感じ、これは多少しんどい道中になるかもしれないなと思った。その感覚はロバートも同じだったようで、しばらく進むと彼はラクダからおり、隊列と並ぶようにして歩き始めた。一瞬自分もそうしようかという気持ちになったが、なんとなく我慢してラクダに乗り続けた。
 やがて前方にホテルの迎えの車が見え、僕らのキャメルサファリは終わった。
 リンダがディナたちにチップを渡したいと言ってきたので、是非そうしようと言い、いくらがよいかと3人で相談した結果100ルピーをチップとして渡した。日本円にして200円。それが彼にとって嬉しい額だったのか、少ないと感じる額だったのか、正直わからなかった。その後お礼を言ってお別れをした。いい人たちだった。

 迎えに来たドライバーは、近くにあるいくつかの観光名所に立ち寄らないかと勧めてきたが、なんとなくこのまま町に帰りたい気分だった僕らは、その申し出をすべて断ってまっすぐレヌーカへと向かった。ホテルに到着すると、時刻は午後の1時になっていた。
 どうやらロバートも僕と同じように、今日の午後にジャイプルに向かう予定のようだった。ただ僕はバスで向かうのに対し、ロバートは鉄道だった。僕のバスは夕方発だったので、まだけっこうな時間があった。
 僕たちは一旦別れたのちに、レヌーカの屋上レストランで待ち合わせようと約束をした。僕は宿泊客ではなかったが、ホテルのシャワールームを使わせてくれるということだったので、そこで顔と髪の毛だけを洗い、ツアーでついた砂を落とした。

 シャワーを終え、幾分さっぱりした気分で出てくると、ホテルの入口から浅黒いアジア系の男が入ってくるのが見えた。「Hi」と声をかけると、彼は軽く頭を下げて返答した。
「こんちはー」
 それは日本語だった。それも片言ではなく、正真正銘の日本語だった。インドに来て以来、初めて遭遇した日本人の旅行者だった。僕はリンダに先に行っていると告げ、彼と一緒に屋上のレストランに上がった。
 バターパニールマサラカレーとナン、そしてチャイを注文し、食事をしながら話をした。彼は名前をジュンと言い、東南アジアとネパールを旅してインドにやって来たのだと言った。ジャイサルメールには昨日着いたらしい。
 しばらくするとロバートとリンダも上がってきたので、しばし4人で話をした。
「ああ、ここに一日中座っていられるな」
 ラクダに乗った道中で大分消耗したらしいロバートは、そう言って笑った。
 やがて町を散歩してくると言ってジュンが去っていったので、僕らは3人でガイドブックを眺めながら今後の旅のプランを語り合った。
 バスと鉄道でそれぞれジャイプルに向かう僕とロバートは、向こうで落ち合おうという話になり、町の地図を見ながら待ち合わせによさそうな場所を考えた。ジャイプルは大きな町のようだし、お互いインドで使える携帯電話なども持っていないので、あらかじめ場所と時間を決めておく必要があった。やがて一軒のカフェを待ち合わせ場所とすることにし、時間は明日の午後1時とした。ジャイプルには明日の朝方に着く予定なので、十分時間はあるだろう。リンダはひとまずジャイサルメールの東にあるジョードプルという町に立ち寄ることにしたようで、さっきそこまでのチケットを予約してきたと言った。

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 その後3人でジャイサルメールの町をしばらく散策し、やがて一足先に出発するというリンダとホテルの前で別れの挨拶をした。メールアドレスなどは交換していたので、この先の旅の途上で再び遭遇する可能性もなくはなかったが、それぞれのルートを考える限りその可能性は低そうにも思えた。列車でリンダと同席になったことで、ジャイサルメールの滞在はデリーの滞在とはずいぶん違ったものとなった。僕は彼女に感謝し、出会えてよかったと思った。

 リンダと別れた直後にホテルからジュンが出てきたので、また2人でレヌーカの屋上レストランに行って話をした。僕らはインドに着いてからの経験を語り合い、ジュンはインドでだまされた日本人のエピソードなどを語った。
「デリーであるサラリーマンがリクシャーに乗ったらしいんですけど、そのリクシャーの運転手が悪いやつで、言ったのとは全然違うホテルに連れていかれたらしいんです。それでなんかおかしいと思ってガイドブックを取り出して調べようとしたら、突然リクシャーの外にいた男に本をひったくられて逃げられちゃって……そのサラリーマンはもう自分がどこにいるのかもわからないし、仕方なく連れてかれたそのホテルに泊まったらしいんですけど、1泊で200ドル(約2万円)もふんだくられたそうですよ。デリーとかやばいっすよね」
 デリーでは大分警戒していたせいか自分はひどい目には遭わなかったが、やはりそういうことも起こるのだなと思った。訊いているとサラリーマンの無防備さにも原因はあるような気もしたが、用心はしたほうがよさそうだと改めて思いなおした。ジュンはインドのあとはトルコに行き、その後はアフリカに行く予定で、できれば南米にも行きたいと言った。彼は29歳で、彼もまた長い旅をしていた。
 インドではなぜか日本人の旅行者を全然見かけなくて、君が初めて遭遇した日本人だよと言うと、
「バラナシに行けば山ほどいますよ」
 とジュンは言った。バラナシとはインド東部のガンジス河のほとりにある有名な聖地で、かつてはベナレスとも呼ばれていた。僕もコルカタに向かう途中で是非立ち寄りたいと思っていた場所だったが、ジュンによるとそこは日本人に大人気で、日本人ばかりが泊まっているゲストハウスなどもあり、長期滞在する者たちで溢れているのだという。
 もっと話していたかったが、すでに午後4時をまわり、バスの時間が近づいてきていた。僕はジュンとアドレスを交換し、彼と別れた。

 ホテルのスタッフが呼んでくれたリクシャーに乗り、5分もするとバス乗り場に到着した。リクシャーの運転手は走っている際に、しきりにプシュカルという場所を僕に勧め続けた。
「プシュカルはとてもいい。場所もジャイプルに行く途中にある。是非立ち寄ったほうがいい」
 そう言われると是非とも行ってみたくなった。ロバートとの約束がなければそうしていたかもしれない。しかし今からロバートにそのことを伝えるすべがない以上、諦めるしかなかった。
 運転手は親切な男で、僕をバスの前まで案内してくれただけでなく、バスの中に入って僕の席がどこにあるのかまで調べてくれた。バスは普通の座席に加え、体を横たえることができるフラットなスペースがボックスのように区切られる形で2段に設置されており、さながら寝台列車ならぬ寝台バスといった感じだった。ジャイプルに到着するのは翌日の朝だったので、僕もまたこの寝台シートを購入しており、僕のシートは上段、いわゆる「アッパーバース」と呼ばれる場所だった。
 出発まで少し時間があったので、一旦バスの外に出て目の前の売店でお菓子や水を買い、運転手に代金を払った。リクシャーの料金は30ルピーだったが、20ルピーのチップを加えて50ルピーを手渡した。彼は感謝の言葉を言い、知り合いにレヌーカのことを宣伝しておいてくれと言った。
 その後もなかなか運転手は帰ろうとしないので、そばにあったチャイスタンドで一緒にチャイを飲んだ。そしてようやく発車の時刻となり、さて行くかと歩き出したそのとき、自分の足がなにか柔らかいものを踏んだ。
「おー、やったやった!」
 運転手が嬉しそうに僕を指さした。足元を見ると、そこには潰れた牛のフンがあった。インドに来て以来、道のいたるところにこうしたフンを見かけ、これまではうまくかわしていたのだが、ついに踏んでしまったというわけだ。うわ、まいったなあと近くの石などを使って必死にこすり落としていると、運転手が肩をたたいて言った。
「大丈夫、大丈夫。牛のフンを踏むのはラッキーのしるしだから」
 彼が気を使って言ってくれたのか、あるいはインドには本当にそういう考え方があるのかわからなかったが、とりあえずその言葉を信じることにした。

 バスに入って自分のシートに横たわっていると、あとから乗ってきたひとりの旅行者らしき男が訊ねてきた。
「なあ、そこは本当にあんたのシートか?」
「そうだよ。ここはGで、俺のチケットにもGと書いてある」
「おかしいな、俺のチケットもGなんだよ」
 どういうことだがわからなかったが、ここはあのリクシャーの運転手が案内してくれたシートだし、間違いないと思った僕は、ここは確かに自分のシートだと主張した。男はそうかと比較的簡単に引き下がり、しばらくしたのちに真下のシートが空いているようなので俺はここにすると言ってきた。あるいは彼はアッパーバース(上段)とロウワーバース(下段)を勘違いしていたのかもしれなかった。

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(夜行バスの中)

 そんな会話をしているうちにバスが発車し、少し走ると外が暗くなり始めた。
 やがて小さな町に停まったので、トイレに行くためにバスを降りてみた。
 用を足して戻ってくると、さっき座席のことで話しかけてきた男がバスの横でタバコを吸っていた。彼は西洋人にしては小柄で、身長は165センチくらいだろうか。顔にひげを蓄えていたが、年齢はまだ20代の半ばか後半くらいのように見えた。
「おい見ろよ、あそこの女。サイコーだな、ちょっと引っかけてくるかな」
 そう言って彼は、離れたところに立っている女性旅行者の2人連れを指さした。
「あんたはどっから来たんだ?」
 彼が訊ねてきた。
「日本」
「日本? マジかよ、この旅で日本人の旅行者に初めて会ったぜ」
「君はどこから?」
イスラエルさ」
 どこか退廃的な雰囲気を醸し出すその男は、幾分しゃがれた声でしゃべり続けた。
「インドはいいな。いろいろ周ってきたよ。南部がよかったな。ゴアも悪くないが、特にハンピだな。あそこは最高だ。ハンピはいい」
「それでこれからどこに行くんだい?」
 なんとなく話を合わせるようにして訊ねると、
「プシュカルさ」
 そう言って彼はにやにやと笑みを浮かべながらタバコをふかした。

 僕の横たわる寝台シートは左側が窓になっているのだが、ロックが壊れているらしく窓が完全にしまらなかった。風が入ってきて寒いので最初は足で押さえたりしていたのだが、足をどかすとすぐに半開きの状態になってしまう。どうにかできないものかとしばらく考えていたが、やがて諦めてただ寒さに耐えることにした。
 時折町の灯りの中を通り過ぎるが、それ以外は真っ暗な道をバスは走り続けた。空を見上げると、昨晩ほどではないにしろ星がよく見える。
 久しぶりに1人になったな、という感じがした。それはそれで悪くない感覚だった。