<Day 16 バラナシ >



                1月21日

 当初の予定であれば今日、日本に帰国していたはずだった。
 8時半に起床して屋上に上がり、椅子に座って過去2日分の日記を書き、コジマ君の宿をキャンセルするための戦略を考えた。
 妥協しない姿勢を見せることは大事だが、ケンカ腰でいっていたずらに議論を白熱させるのは逆効果だろう。やはり熱くならず、友好的に話を進めるべきだろうと思った。

 11時半にパレス・オン・ステップスに行くと、コジマ君はまだ部屋で寝ていた。チェックアウトは12時までだったので、彼は寝ぼけ眼のまま荷造りをし、それが終わると僕らはフロントに向かった。
「聞いていると思うけど、彼はこの宿の宿泊をキャンセルしたいんだ」
 そうフロントにいた男に告げると、男はキャンセルする場合は48時間前までに伝える必要があり、そうしない場合はキャンセル料が発生すると言った。そして彼に返却できるのは一泊分の料金750ルピーだけだと言った。
「ここはホテルだ。たくさんの人が我々のホテルを予約したがっている。だから自分の好きなときにキャンセルするなんてことはできない。どこのホテルだって同じようにキャンセル料を取る」
「そんな話は聞いたことがない。以前にホテルをキャンセルしたことがあったけど、キャンセル料など取られなかった」
「どこのホテルだ?」
ジャイプルのパール・パレスだ」
 これはブラフだった。僕はパール・パレスに泊まったことはなかったが、あの宿のスタッフならキャンセル料など要求しないだろうという確信に近い思いがあった。バラナシの宿の名を出すのを避けたのは、彼らがどのようなネットワークによってつながっているかさだかでなかったからだ。もっともリクシャーの料金を不当に要求しようとしたあのサンカタ・ゲストハウスでさえ、僕のドタキャン要求に対してはすんなりと返金を行ってくれていた。
 男は僕の返答を聞いてしばし黙り、やがて言った。
「わかった。私のボスが3時にここに来るから、そのときに2日分の料金を返却できるか頼んでみる。だから3時にまた来てくれ」
 そう言うと彼は、君もこの宿に泊まらないかと僕を説得し始めた。いい部屋があると言って、僕を2階にある部屋に連れて行った。そこもまたガンジス河を一望できる眺めのよい部屋だった。
「君はよい人間だ。だからこの部屋を350ルピーにしてあげよう。よい人間に対しては、お金など関係ないんだ」
 なぜ僕が彼にとって「ナイス・ピープル」なのか不明だったが、一気に値段が半分以下になった。彼の言葉はいかにも調子がよく、もちろん泊まる気になどなれなかった。
「……だから君の友人にすべて問題はないと伝えてくれ」
 そう彼はつけ加えた。あるいはこれはコジマ君を750ルピーの部屋に引き留めるためのディスカウントなのかもしれなかった。
「彼はこの宿のスタッフに不快な対応をされたと言っていたよ」
「それは違う。彼は英語がわからないので我々の言うことに過敏になっているだけだ。彼は昨晩とても混乱していて、我々の話をまともに聞こうとしなかった。君が泊まっていれば彼も安心するだろう」
 ひょっとしたら彼の言うことにもいくらか真実が含まれていたかもしれない。昨夜コジマ君と話したとき、彼はもう少しで逆上してスタッフを殴るところだったと言い、さすがにそれは過剰反応だろうと僕も感じたからだ。相手の言っていることが理解できないとその不安から相手を疑い、過剰に敵視してしまうというのはあり得ることだった。しかしだからといって彼らの対応は肯定できるものではなかった。僕はとにかく自分には部屋があるから結構だと言い、コジマ君と一緒に宿を出た。

 とにかく3時まで待たなくてはならなくなった。
 僕らはシータ・ゲストハウスに行き、フロントにいたマネージャーに空き部屋はあるかと訊いた。コジマ君はこの後の宿を探す必要があったからだ。
 マネージャーは40代から50代くらいの、紳士的な雰囲気を持つ誠実そうな男だった。彼は空き部屋はあると言い、部屋に案内しようとしたので、少し待ってくれないかと言ってコジマ君が抱えている問題について説明をした。
「キャンセル料を要求するなんてのはまったくもって普通のやり方じゃない。通常は泊まった日の料金だけ払えば問題ない」
 そうマネージャーは言った。
「もし彼らが返金を拒絶したら私に言いなさい。ツーリスト・オーガナイゼーションに報告し、インターネットにも書き込みをしてやる」
 インターネットに書き込み、というのがなんとなく可愛らしかったが、僕はマネージャーの親切に感謝し、バラナシでホテルを経営する者のお墨付きをもらったことで、3時からの交渉に対して自信を持つことができた。
 マネージャーは問題が片付くまで、空いている部屋にコジマ君の荷物を置いておいて構わないと言ってくれた。

 3時まではまだ時間があったので、ダシャーシュワメード・ガートの近くの河沿いレストランに行き、そこで食事をしながら時間を潰した。

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 コジマ君はいろいろ迷惑かけてすみませんと言い、レストランの勘定は自分に払わせてくれと言った。

 3時になり、再びパレス・オン・ステップスに行った。
 フロントには4人の男がおり、そのうちのひとりがボスのようだった。話を始めようとすると、今は忙しいからソファーで待っていろと言われた。その邪険な応対にまた少し嫌な気分になったが、とにかく僕らは言われた通りロビーにあったソファーに腰かけ待つことにした。
 10分くらい待ってもまだ声はかからなかった。フロントの男たちは特になにをしている風でもなかったが、僕は仕方なく置いてあった新聞を読み、コジマ君は緊張した面持ちでただ座っていた。
 一組のヨーロッパ人らしきカップルがチェックアウトをするためにフロントにやって来た。彼らは駅までリクシャーを呼んでくれないかと頼んでいたが、それに対する男たちの応対も見ていてもやはりぶっきらぼうで感じのよいものではなかった。
 カップルが出ていってもまだ声がかからないので、立ち上がってフロントの前に行き、キャンセルの手続きをしてくれと言った。すると午前中に話をした男がすでに準備をしていたかのように、さっと僕に1000ルピーを手渡した。
「一泊750ルピーなのだから、全部で1500ルピーのはずだ」
 そう言うと、彼はこれもまた準備していたかのように何も言わずに500ルピー札を投げてよこした。結局向こうはこっちが自然に折れるのを待っていたのかもしれなかった。何も反論しなかったところを見ると、自分たちの言い分に正当性がないことは最初からわかっていたのだろう。
 僕はありがとうと言ってソファーに戻り、コジマ君に1500ルピーを渡した。あまり気持ちのよいやり取りではなかったが、とにかくこれでキャンセルは完了だった。
 
 コジマ君は荷物を置かせてもらっていた、シータ・ゲストハウスの3階の部屋に宿泊することになった。ようやくすべて片付いたので、今日はひとりで町を歩いてみると言って外に出かけた。
 河から100メートルほど離れたところにベンガリー・トラという通りがあり、河と並行するようにして南北に伸びていた。河沿いの宿周辺の道と比べれば幾分広いものの、ここもリクシャーが通れるほどの幅はなく、両脇には小さな店やレストランが立ち並ぶ活気のある通りだった。僕はここをぶらぶらと散歩しつつ、一軒のインターネットショップに入った。

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 インドのインターネットショップの多くはいわゆる日本のような「カフェ」ではなく、狭い店内にパソコンが並べられ、ルピーを払うことでそれを使うことができるという、純粋にインターネットをするためのスペースだった。
 ベンガリー・トラにあった店もそういう店だった。従業員はまだ10代に見える少年がひとりいるだけで、僕は彼にプリンターを使えるかと訊ねた。使えると言うので、僕は1台のパソコンの前に座り、ホットメールにサインインしてメールをチェックした。
 ロバートからメールが届いており、彼は日曜日にバラナシに到着する予定だと書いていた。日曜日と言えば明後日だ。どうやら僕らはバラナシで再会することができそうだった。バラナシでどこかお勧めの宿はあるかと書いてあったので、個人的にはアルカ・ホテルという場所がよいと思うが満室だったということと、今自分はシータ・ゲストハウスという場所に泊まっているということを返信に書いた。
 そんな風にメールを書いていると、入口のほうから日本語が聞こえてきた。
「ここ日本語使える? プリンター、オーケー?」
 見ると20代半ばくらいの日本人の男が、従業員の少年に日本語で訊ねていた。少年は日本語がわかっていなさそうだったが、日本人の彼は「オーケーね?」と言って席に着いた。
「なにコレ、ワカンネェ。プリントアウトどうやってやんの?」
 彼の話す言葉はすべて日本語だった。普通に考えると伝わるわけはないのだが、こういうタイプの人間というのはどういうわけか会話を成立させてしまうもので、彼は少年の英語の説明に対し「いやオレ、英語わかんないから」などと言いながらもプリントアウトをしていた。
 僕はロバートへの返信を書き終え、シンガポール航空からメールで届いていた新しい「Itinerary」をプリントアウトした。電話で話した職員の女性いわく、これを空港のカウンターに持っていけば飛行機に乗れるとのことだった。
 料金はインターネットが30分で10ルピー、プリント代もまた10ルピーだった。ホテルでパソコンを借りるより安かったので、これからはここに来ようと思った。

 その後は河からさらに離れたところにある大通りを散歩した。こちらは通りにリクシャーと、乗用車と、人と、牛が無造作に溢れているという、インドならではのカオスが展開されていた。これはデリーでもジャイプルでもそうだったが、道の真ん中に平然と牛が寝ていたりするので、リクシャーや車などはそれを避けるように巧みなハンドリングで走り抜けていく。寝そべる牛が数頭にもなるとそれによって渋滞が発生したりもするのだが、インド人たちは特に苛立つ風でもなくゆっくりと車を進めていく。単に宗教的理由というだけでは言い切れないような、不思議な寛容さが彼らにはあった。

 日が暮れる頃に火葬場に行った。
 ダシャーメーシュワメード・ガートから北にしばらく行くとマニカルニカー・ガートという場所があり、そこに死体を焼く火葬場があった。この火葬場もまた、沐浴を行う人々と同じようにバラナシを象徴するもののひとつとして知られていた。昨日サンカタ・ゲストハウスなどを周った際にちらっと見ていたのだが、もう一度行ってみようという気になり、午後6時頃にガートに到着した。
 薄暗くなった河原に死体が運びこまれ、順番に焼かれていった。
 死体は竹か何かでできた担架のようなものに乗せられ、それを複数の男がかついで運んでくる。そして彼らは白い布にくるまれた死体を一度ガンジス河の水につけると、今度はそれを河原に長方形に組み上げた木の上に寝かせ、火をつける。
 布に包まれているため年齢や性別もさだかでないが、その形から人間であることはわかった。火は大きくなり、真っ赤な炎が身体を包み込む。その炎の中で、身体は少しずつ小さくなっていった。痩せこけた野良犬たちが集まり、炎のまわりをうろうろと歩き回っていた。焼ける肉の匂いに吸い寄せられているように見えた。その光景を見て、ここでは人間と動物が同じ高さにいる、と思った。
 火のまわりで火葬を担当するインド人たちは、ただ自分たちの日課をこなしているといった風に淡々としていた。そのまわりに死者の親類らしき者たちがおり、さらにそのまわりでは僕のような観光客や、それに話しかける地元のインド人たちが立ってそれを見物していた。この状態を罰当たりと取るべきか、皮肉と取るべきか、自然のことと取るべきなのか、わからなかったが、ここにいるインド人たちにとっての死生観とはどんなものなのか、それを知りたいと思った。火の粉は夜空に高く舞い上がり、それが焼かれている人の魂のように見えた。さっきまでここにいた彼らはどこに行ったのだろう? 暗い空を見ながら思った。
 
 2時間ほどそうして火葬場で過ごした後、ベンガリー・トラ通りを宿に向かって歩き、途中にあったスパイシー・バイツという名のレストランで夕食を食べた。
 レストランはアジア人に人気の場所らしく、客の多くが日本人と韓国人だった。昨日訪れたシヴァ・ゲストハウスの近くだったので、それも関係しているのかもしれなかった。なかなか居心地のよいレストランで、僕はチキンカレーとナン、それに「maaza」というマンゴージュースのようなものを注文し、食べながら日記を書いた。

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 午後9時頃にレストランを出て、売店でスナックを買って宿に戻った。
 部屋に戻り、一服して窓の外を見ながら、やはり自分は頼られるのが苦手なんだよなと思った。僕はいつもそうだった。誰かに頼られると、いつもそこから逃げたくなってしまい、実際逃げてきた。今回インドに来たのも、ある意味それが原因でもあった。
 だからきっと、ひとりでいるほうがいいのだ。