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<Day 17 バラナシ >



                1月22日

 朝7時に起きて屋上に行くと、ガンジス河の向こうからすでに朝陽が昇っていた。
 河の上には何隻かのボートが浮かび、陽の光に照らされながらゆっくりと水上にその軌跡を描いている。ホテルやガートがあるこちらの岸とは対照的に、対岸には建造物がなく、白い砂地が一面に広がっていた。対岸は不浄の地、とされていることがその理由なのだという。

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 屋上には僕以外に西洋人の女性がひとりいた。このホテルに泊まっているらしく、これまでも何度か姿を見かけていた。女性は屋上の柵の前の椅子にあぐらをかいて座り、朝陽に向かって瞑想をしていた。
 彼女とは階段の踊り場で顔を合わせた際に軽く話をしたことがあった。自らのスピリチュアリティをアピールするような、やや神経質な感じの女性で、その時はあなたのような俗っぽい人間に興味はないとばかりに邪険な対応をされた。そのときの経験が思い出されたので、僕は話しかけることはせず、その後ろでタバコを吸いながら朝陽を眺めた。
 あなたにとっての清浄さとは何だい? あなたにとっての毒とは何だい?
 タバコの煙を吐き出しながら、僕は心の中で女性の背中に問いかけていた。ヨガを真剣にやっているという彼女だったが、彼女の心がそれによって平安を確立しているようには思えなかった。
 そんなことを考えながらも、せっかくバラナシにいるのだからヨガを習ってみるのもいいかもなと思った。

 すっかり明るくなった頃に、河に下りていった。
 沐浴をする人々を眺めながら、さて今日はどうしようかと思っていると、河岸にいたひとりの中年男性が声をかけてきた。
「ミスター、ボートに乗らないか?」
 バラナシではお金を払ってボートに乗せてもらい、ガンジス河をしばし遊覧するという行為が人気で、朝から晩まで河の上には観光客を乗せたボートが漂っていた。自分も一度は乗ってみたいと思っていたので、値段を訊いてみると30分で70ルピーだと言う。やや割高のような気もしたが乗ってみることにした。
 男は河岸につないであるボートに僕を案内し、そこにいたひとりの少年に何事か話しかけた。どうやら少年は彼の息子のようで、彼がボートをこいでくれるらしい。ボートの後ろの部分に腰かけると、少年は長い竹の棒で作られたオールを使ってゆっくりとボートを動かし始めた。

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 河の上からは岸辺に並ぶガートが見渡せ、岸の上から見るのとはまた違い、新鮮な感じがした。沐浴をする人々、洗濯をする人々、石段でクリケットをする人々、ガートには朝から様々な営みに従事する人々の姿があった。
 自分でもボートをこいでみたくなり、少年にこがせてくれるかいと訊くと、オールを渡して席を代わってくれた。最初は戸惑ったが、次第に慣れて自由に動かせるようになった。広いガンジス河を自分でボートをこぎながら移動していくのは、なんとも気持ちがよいものだった。
 しばらくガートの景色を楽しんだ後は、対岸に向かってこぎ、そこにボートをつけて上陸した。不浄の地とは言われているが、上陸することは構わないようで、白い砂地の上には同じようにボートで渡ってきた観光客や、それを相手に商売をする者、それにこちらでも沐浴をする人々の姿があった。
 白い馬を連れた小さな男の子が、馬に乗らないかと声をかけてきた。詳細はよくわからなかったがラクダにも乗ったし馬に乗るのもよいかなと思い、値段を訊いてみた。
「200ルピーだよ」
 男の子がそう言うので、それは高すぎる、50ルピーだったらいいよと言うと、彼はあっさりとオーケーと言い、僕を馬の上に乗せた。そして馬を引いて白い砂地の上を歩き回った。目的地のようなものがあるわけでもなく、辺りは見渡す限り白い砂なので、風景が特に変わるわけでもない。砂地を5分くらいかけてぐるっとまわって、それでおしまいだった。これは50ルピーでも高かったなと思ったが、僕は男の子にありがとうと言って馬を降りた。

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 砂地にはチャイと軽食を売る簡易スタンドもあったので、僕はそこでチャイと揚げ物のようなおやつを買い、ボートをこいでくれた少年と一緒に立ち食いをした。
 その後は少年にボートをこいでもらい、シータ・ゲストハウスの前のガートで降ろしてもらった。腕時計を見ると乗ってから37分が経過していた。少年は120ルピーくれと言ったが、30分で70ルピーなのでそれは多いはずだと言い、100ルピーを渡した。少年は納得してボートをこいで帰っていった。

 降りたガートには他にもいくつかのボートがつながれており、そのうちのひとつに若い日本人の女の子とインド人の少年が腰かけて話をしていた。声をかけられたので僕もその仲間に加わり、しばらく話をした。
 女の子と少年は顔見知りのようで、これからここで朝食を食べるから一緒にどうかと言われた。やがて少年の友人らしき子供が2人来て、カレーとチャパティと軽食のようなものを届けてくれた。僕はありがたくいただくことにし、ボートの上に座りながら彼らと一緒に朝食を取った。
 女の子は2ヶ月前からインドに滞在していると言った。その雰囲気から長期滞在者だろうなと思っていたが、彼女もまたバラナシに「沈んだ」ひとりということなのかもしれなかった。オム・レストハウスというシータのすぐ近くにある宿に泊まっているとのことで、僕がシヴァ・ゲストハウスの屋上で会った男性のことも知っていると言った。
 彼女はもう少しインドに滞在した後にバングラデシュのダッカに行き、そこから日本に帰るとのことだった。しばらく話をしたあとで「またどこかで」とお互いに言って別れた。

 その後河から離れて路地を散歩していると、前方からコジマ君がひとりの日本人女性と一緒に歩いてきた。バラナシには日本人がたくさんいると聞いていたが、確かにこれまでの土地と比べ、街で見かける日本人比率は飛び抜けていた。コジマ君とその女性は数日前にデリーで知り合ったらしく、お互いにバラナシに来ていることがわかったので今日待ち合わせをしたのだと言う。
 女性はインドで購入したと思われるサイケデリックな模様のダボダボのズボンを履き、上半身には毛糸で編まれた上掛けのようなものを羽織っていた。年齢は自分より少し下だろうか。彼女もまたインド滞在が長そうな雰囲気だったが、シヴァ・ゲストハウスの男性や先ほどボートで会った女の子と比べると、その表情には屈折感がなかった。
 どうやってコジマ君と知り合ったの、と訊くと、
ニューデリー駅の2階のチケットカウンターで、切羽詰まった顔をしたコジマさんに列車のチケットの買い方を訊ねられたんです」
 そう言って彼女は笑い、コジマ君もそうなんですと照れくさそうに言った。彼女はやはりインドに何度か長期滞在した経験があるらしく、今回も3月の末までいる予定だと言う。

 しばし話をしたあと、彼女は少し見に行きたい場所があると言って去っていった。それを見送ると、コジマ君が言った。
「実は彼女、ちょっとしたトラブルに遭っていて……」
 なんでも昨日こんなことがあったらしい。彼女がマーケットの店で買い物をしていると、突如停電が発生し、店内が真っ暗になったのだという。とはいえ停電はバラナシではよくあることで、一日に数回は電気の供給が途切れることがあり、宿によっては発電機を用意しているところも少なくなかった。ただ彼女のいた店の主人が悪質な男、というより助平な男で、店内が暗くなるなり彼女の手を握り、「私がついているから大丈夫だ。灯りがつくまでここにいなさい」と言って離そうとしなかったのだと言う。悪いことにその店は外の通りからは見えない密室のようになっており、結局彼女は2時間近くもその店に拘束された挙句、最後には買った品物も置いてどうにか逃げ出してきたのだという。
「それでその品物を取りに行きたいから、一緒についてきてくれないかって頼まれてるんです」
 とコジマ君は言い、12時にガートのひとつで待ち合わせをしているので、よかったら一緒に行きましょうと言った。

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 再びひとりになった僕は、街中に出ていた標識を見て気になっていたヨガ・センターという場所に行ってみることにした。ヨガをやろうと思ってもどこに行ったらよいかわからなかったので、とりあえず名前からしてここに行けば何か教えてもらえるのではないかと思ったのだ。
 しかしヨガ・センターには誰もいなかった。センターというわりには小さな建物で、中を覗くとヨガをやりそうなスペースはあるのだが、誰もいないので確かめようもない。仕方ないのでまた出直すことにし、しばしぶらついた後にコジマ君に言われた待ち合わせ場所まで歩いていった。

 ガートにはすでにコジマ君がおり、ひとりのインド人の少年になにやら話しかけられていた。少年はドラッグの売人かなにかのようで、マリファナやハシシをやらないかとしきりに誘い、それをコジマ君がはねつけていた。
 待ち合わせ場所には来たものの、僕は正直どうしたものかと迷っていた。あの女性はコジマ君を頼って頼んできたわけだし、なんとなくそこに会ったばかりの自分がついていくのは無粋なのではないかという気がしたからだ。そのようなことを遠回しにコジマ君に伝えると、
「いや、彼女既婚者なので……」
 と答えになっているような、なっていないような返答をした。 
 やがて彼女が姿を現した。僕はやはりなんとなく遠慮して、自分はしばらくここにいるから何かあったら呼んでと言い、店に向かって歩いて行く2人を見送った。
 
 僕はガートに座り、買ったばかりの新聞などを読みながら、話しかけてきた売人の少年の相手をした。少年はまだ15歳かそこらに見え、その商売内容はさておき話してみると素直そうな性格をしていた。彼はガートの横に建てられたテントに住んでいるらしく、話しているうちにそのテントに来ないかと言ってきたので行ってみることにした。
 テント、といってもそれは6畳ほどの広さはあろうかというもので、天井も高く、2人で入ってもまったく窮屈な感じはなかった。中には毛布を敷いた簡単な寝床があるだけでガランとしていた。
「ビールを飲むのは合法だよ。マリファナも大丈夫。警察に見つかっても問題ない。僕はコネクションがあるからね。でもハシシは完全に違法だ。僕でも警察に見つかったら捕まっちゃう」
 そう言って彼はインドあるいはバラナシにおけるドラッグ事情を説明してくれた。なかなか面白い話だったので僕もいろいろと質問をしながら彼の話に耳を傾けた。やがて彼は大麻樹脂のようなものを見せてやらない?と訊いてきた。いや結構だと言うと、彼はじゃあ外に出ようかと言ってテントの外に僕をうながした。

 僕らは再びガートの石段に座り話をした。
 このガートにもまた小さな火葬場があり、話をする僕らの目の前で何体かの身体が焼かれていた。
 僕が手に持っていた英字新聞を見て彼は言った。
「僕は新聞を読むのが好きなんだ。新聞を読むといろいろなことを学べるから。でも英語は読めないから、僕が読むのはヒンドゥー語の新聞だけだけど」
 学校には行っていないだろう彼にとって、外の知識を得るための数少ない情報源が新聞なのかもしれなかった。普通に学校に行けるような暮らしをしていれば、彼もいろんなことを嬉々として学んだのかもしれないなと思った。
 そんな風に思いを巡らせていると、ふいに彼が言った。
「あ、顧客が来た」
 そう言って彼は立ち上がり、向こうから歩いてきた旅行者らしき男のほうに走っていった。彼がマイ・カスタマー、と呼んだ男は20代後半くらいの日本人だった。その覇気のなさそうな表情から「沈んだ」人間であることはすぐにわかった。少年はしばらくセールストークを繰り返していたが、やがてダメだった、と言って戻ってきた。
 その後も何度か少年は「顧客だ」と言って旅行者に声をかけに行ったが、そのすべてが日本人だった。顧客と呼ぶからには、彼らが日常的に買っているのだろう。やはりバラナシには「沈んだ」日本人がたくさんいるようだった。
 やがて少年はこれから服を買いにいくと言って去っていき、コジマ君たちも戻ってこなさそうだったので僕もその場を離れた。

 少し離れた場所にあった公園に行き、インド人たちがクリケットをする様子を眺め、大通りの店で小さなカバンを買い、続いてカメラのSDカードを買った。インドに来て以来写真を撮り続けたせいで、カードのメモリーが一杯になってしまっていた。いらない写真を削除したりしてしばらくやりくりをしていたが、まだまだ日数もあるので買ってしまおうと思ったのだ。

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 夜はまたマニカルニカーガートの火葬場に行った。
 インドではすべてがむき出しのように見えた。観光客相手の商売が行われるその横で、人の身体が焼かれて天に昇っていく。そしてここにいると段々そのことが自然に感じてくるのだった。何が普通で何が普通じゃないかなど、所詮その国の事情に過ぎないのだということを改めて思った。

 夕食は今日もベンガリー・トラ通りで食べることにした。
 昨晩入ったスパイシー・バイツを通り過ぎ、さらに宿の方へと歩いていくと、一軒の活気あるレストランが目についた。中は客で混み合っていたが、店員に食べられるかと訊くと一箇所だけ空いていたテーブルに案内してくれた。店員の態度はインド人にしては珍しく弾むような陽気さがあり、まるで「お客様一名ご来店!」とでも言うように厨房に向けて元気な声を発していた。
 席について注文をし、料理を待ちながら日記を書いていると、やがて後から入ってきた客が同じテーブルの向かいの椅子に腰かけた。見ると自分とさほど年齢は変わらなそうな白人の男だった。合席となったので互いに軽く挨拶をし、やがて運ばれてきた料理を食べながら話をした。
 彼はイギリス人だった。ロンドンから来たと言い、名前をオリバーと言った。ロンドン人らしく彼の英語は綺麗なブリティッシュ・イングリッシュで、久しぶりに聞くそれは何か新鮮な感じがした。職業はフリーランスのフォトグラファーで、今回は純粋に旅行だが写真はたくさん撮っているので、それを何かのプロジェクトにつなげられればいいと思っていると言った。ロンドンからデリーに着いて、そこからバラナシに来たらしい。
「ここから西に行こうと思ってるんだけど、何かいい場所とかお勧めのホテルなんかはあるかな?」
 そう訊かれたので、僕はプシュカルやジャイサルメールがよかったと言い、自分がこれまで見てきた宿の名前などを彼に教えた。これは後日知ったことだが、結果的に彼は僕が通ってきたルートをほぼ逆向きにたどることとなり、ツーリスツ・レストハウスやレヌーカなど、僕が勧めた宿に泊まりながら旅をすることとなった。
 隣のテーブルにはギターを抱えたドイツ人の男がおり、僕らはやがてその男を介在に隣のテーブルの客とも話し始め、レストラン内は話声と歌声に溢れた陽気な空間へと変わった。 

 食事が終わり、オリバーと一緒に店の外に出た。
「君はどこに泊まっているんだい?」
 そう僕が訊くと、すぐ近くにあるゲストハウスだと言う。
「とてもいい宿だよ。値段も悪くないし、マネージャーが親切でいい男なんだ」
 なんとなく興味を覚えたので、見てみたいなと言うと、もちろんと言って宿まで連れていってくれた。

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 オリバーの泊まっていたのはロード・ビシュヌ・ゲストハウスという、小さな宿だった。ベンガリー・トラとガンジス河の中間あたりに位置しており、どちらからも目につきにくい場所に隠れるように立っていた。
 小さな門のようなものをくぐると、目の前に2階建ての建物があり、横並びに5つの部屋が並んでいた。1階の部屋の前は小さな庭のようになっており、そこに椅子やテーブルが無造作に置かれていた。そうしたテーブルのひとつがフロント代わりにもなっているらしく、オリバーはその横のデッキチェアに座っていた男を僕に紹介した。彼がここのマネージャーとのことだった。
 マネージャーは40前後くらいの、陽気な男だった。オリバーと一緒に椅子に腰かけ、外の空気に浸りながら3人で話をしていると、ふと自分もこの宿に泊まろうかなという気になってきた。興味本位で見に来ただけだったが、この宿の力の抜けた感じがなにか心地よかったのだ。それはマネージャーの人柄にも表れていて、ちょっといい加減そうだがオリバーの言うように親切そうな男のように思えた。また話の流れで自分がヨガに興味があることを口にすると、それならこの宿の屋上で習うことができると言う。オリバーいわく2階の部屋であれば窓からガンジス河も見えるらしい。
 僕は2階の部屋に空きがあることを確認し、いよいよこの宿に移る気になった。明日の12時にまた戻ってくるとマネージャーに約束すると、僕はオリバーに礼を言ってその場を離れた。

 シータ・ゲストハウスに戻り、3階にあるコジマ君の部屋に行ってみた。
 彼は部屋におり、品物も無事に取り返すことができたと言った。彼が店に入っていった瞬間、男はオーケーオーケーと言って品物を差し出してきたらしい。
 僕は明日別のゲストハウスに移るつもりだと言い、コジマ君は明後日バラナシを発ってカジュラホに向かうつもりだと言った。写真が趣味の彼は、その後は石窟で有名なアジャンターやエローラなどをまわるつもりのようだった。
「明日の朝ボートに乗って朝陽を見て、それからサールナートに行こうという話をあの子としているんですが、一緒にどうですか?」
 そう彼に誘われた。サールナートというのはバラナシから北に少し行ったところにある土地で、ブッダが最初に説法を行ったことで知られている聖地だった。それほど距離はないので日帰りで行けるという。サールナートもまたちょっと気になっていた場所だったので、一緒に行動させてもらうことにした。

 部屋に戻り、そうかコジマ君は明後日ここを発つのかと思った。
 当初の予定ではここからブッダ・ガヤに行くつもりだった。ガイドブックを読むと水曜日と木曜日はブッダ・ガヤに行く列車がないと書いてあり、今日は土曜日なので、そうすると次の火曜日までに列車に乗ることが現実的だった。その場合バラナシの滞在はサールナートに行く明日を含めてあと3日ということになる。
 もう少しここにいたいような気もした。面白そうな宿も見つけたし、あるいはブッダ・ガヤに行くのはやめて、バラナシの滞在を延ばしてもよいかもしれないなと思った。
 バラナシはのんびりしていて、確かに長期滞在によさそうな場所だった。少年の「顧客」のような深さでこの街に沈みこみたいとは思わなかったが、僕もまたこの土地のゆったりとした時の流れにからめとられつつあるようだった。