<Day 21 バラナシ >



                1月26日

 朝になるとトーコちゃんの容態は大分よくなっていた。
 まだ起き上がることはできなかったが、真っ青だった顔に生気が戻り、話す言葉もはっきりしていた。とりあえず最悪の状態は脱したようだと安心した僕は、また少し病室で仮眠を取り、昼頃まで様子を見た上で一旦宿に戻ることにした。
 夜にまた来るよと言うと、申し訳ないけどいくつか私物を取ってきてもらえませんかと、シヴァ・ゲストハウスの部屋の鍵を渡された。僕は承諾し、病院を出た。

 今日はインドのリパブリック・デイ、共和国記念日とのことで、街にはどことなく陽気な空気が流れていた。天気もよかったので、僕は歩いて宿まで帰ることにした。
 街中にはインド国旗がはためき、国旗の色である緑とオレンジと白の風船などを売る人の姿が目についた。普段はあまり見かけない象なども通りを歩いており、空には凧が舞っていた。僕はなんとなく明るい気分になりながら4キロほどの距離をのんびりと歩いた。

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 ロード・ビシュヌに戻ると、オリバーが庭の椅子に座っていた。
 彼にトーコちゃんの話をすると、実は自分も昨夜からひどい腹痛に襲われ、今朝ドクターに宿まで来てもらったのだと言った。
抗生物質をもらって大分よくなったけど、診察と薬代で600ルピーもかかったよ」
 と彼はややぐったりした表情で笑った。オリバーは今日バラナシを発つことになっていた。
 椅子に座って話を続けていると、外からひとりの女性宿泊客が戻って来て、僕らに声をかけてきた。初めて見る顔だった。
「バラナシから比較的近くて、訪れるのにいい場所はないかしら?」
 そう訊かれたので、僕は自分が行くことをやめたブッダ・ガヤはどうかと勧めた。彼女はアメリカ人で、ロサンゼルスから来たと言った。インドには9月から滞在しているらしく、この宿にも大分長く泊まっているとのことだった。これまで顔を合わせたことがなかったのは、たまたまタイミングが合わなかったからなのだろう。
 名前はリネと言った。歳は20代後半から30くらいだろうか。くりっとした目が印象的な、快活そうな女性だった。インドでは英語を教えたり、シタールを習ったりといろいろやっているようで、3月まで滞在するつもりだという。
 
 やがてオリバーの列車の時間が近づいてきた。
 部屋に戻って荷物をまとめてきた彼と握手をし、これからも互いに連絡を取り合おうと言って別れの挨拶をした。
 バックパックを背負って門の外に出ていくオリバーを見送りながら、またひとり知り合った人間が移動していくなと思った。ロバートもまた、今頃はバラナシの空港に着いているはずだった。
 そういう僕もまた、明日の列車でコルカタに向かうことになっていた。マネージャーが明日の午後5時にバラナシを発つ列車のチケットを取ってくれていたからだ。
 コジマ君もオリバーもロバートもいなくなったし、ちょうどいい頃合いだろうと思えた。唯一気がかりだったのはトーコちゃんのことだったが、今朝の様子を見る限りそれほど心配しなくても大丈夫のように思えた。

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 部屋で少し休んでまた外に出かけようとすると、マネージャーが声をかけてきた。
「今日も病院に戻るのか?」
 そのつもりだと言うと、何時頃に行くと訊いてきた。7時か8時頃かなと答えると、
「なら俺も一緒に行く」
 と彼は言った。予期せぬ申し出だったが、ヒンドゥー語が話せる彼が来てくれるのは正直有り難かった。ヘリテージ・ホスピタルのスタッフの多くは英語をあまりうまく話せなかったので、意思の疎通に結構苦労していたのだ。看護師はまだしもドクターの中にもカタコトしか話せない人間がいることは正直予想外で、英語力という面ではバラナシの街中で観光客を相手に商売している人たちのほうが、よっぽどうまい印象だった。
 僕はマネージャーに8時までには宿に戻ると言い、外に出た。

 いつものようにガートに沿って散歩をした。
 すでに夕暮れが近かった。ガートでは10人ほどの男たちによってクリケットが行われており、それをたくさんの人が石段に腰かけて見ていた。インドではいつでもどこでもクリケットが人気で、ガートや街の路地など、スペースがあれば彼らはどこでもこの野球に似た球技に興じていた。今日は祝日ということもあっていつもより人が多く、30代から40代くらいの大人も交じって楽しんでいた。クリケットのルールは何度見ても理解できなかったが、僕も石段に腰かけてしばらくその様子を眺めた。

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 しばらくそうして眺めた後、再び立ち上がり、さてこれからどこに行こうと思った。
 火葬場が頭に浮かんだが、すぐにその考えを打ち消した。バラナシではすでに死を見た。今晩はバラナシで最後の夜だ。死者よりも生者のイメージを持ってこの街を去りたいと思った。

 僕はまたアルカ・ホテルのレストランに行った。
 ウェイターに料理を注文し、ふと思いついてビールはあるかと訊いてみた。ジャイプルのホテルでミシェルにおごってもらって以来レストランで酒は飲んでいなかったが、この夜はなんとなく飲みたい気分だった。
「アルコールは置いていないんだ」
 そうウェイターは言った。インドでは珍しいことではないので、そうかそれならいいよと言うと、ウェイターはさらに言った。
「でも大丈夫。飲みたいなら調達してくる」
 彼は店の外に出ていき、しばらくしてキングフィッシャーの大瓶を持って戻ってきた。僕は彼に礼を言い、運ばれてきた料理を食べながらビールを飲んだ。
 これがバラナシ最後の夜か……
 目の前のガンジス河を眺めながら、少々感傷的な気分になった。

 食事を終え、すっかり暗くなったガートに下りると、バラナシで一番最初にボートをこいでくれた少年と出くわした。彼とはあの後も何度かガートで会っていて、その都度ちょっとした言葉を交わしていた。
 実は明日バラナシを去るんだと彼に言うと、
「じゃあボートに乗らない?」
 と訊いてきた。
 僕はそのつもりだったのでお願いするよと言い、ガートにいる花売りから赤と黄色の花とロウソクが載せられた紙皿を10ルピーで購入した。
 ガンジス河では紙皿にロウソクと花を載せて流すことで、よきカルマを願うという習慣があると訊いていた。この日は知り合いの子供の命日だったので、僕は知り合いとその子のために花を流すことを約束していた。
 少年にボートの値段はいくらと訊くと、
「お兄さんが値段を決めていいよ」
 と彼は言った。じゃあ30分で40ルピーならどうだろうと言うと、彼はうんいいよと言った。

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 ボートは暗いガンジス河の上にゆっくりと滑り出した。岸辺からはゆるやかな民族音楽のようなものが聴こえ、その音が柔らかなオレンジ色の街灯と混ざり合い、暖かい空気を作り出していた。
「もう少し先に行ってもらえるかな?」
 少年に言い、河の真ん中のほうに向かってボートを進めてもらった。
 水上にはいくつもの赤い灯が浮かび、列を作るようにして流れていた。それは優しい光景だった。僕はロウソクに火を灯した紙皿を左手に持ってボートから身を乗り出し、水面に手を近づけ、そっと紙皿を離した。
 赤く灯った紙皿は手から離れた瞬間にすーっと水の上を流れていき、やがて他の多くの灯の中にまざっていった。僕はこれを約束した人のことを思い出し、昨日の病院での光景を思い出した。そして自分自身がバラナシの持つ、なにか大きな力によって癒されているのを感じた。バラナシはとにかく優しかった。

「僕の写真をくれない?」
 岸辺に向かってこぎながら少年が言った。前回ボートに乗ったときは日中だったので、僕はたくさんの写真を撮った。そのときに彼の写真も撮っていたから、きっとそのことを覚えていたのだろう。僕はいいよと言い、
「住所はある?」
 と訊いた。彼の生活を想像するにメールで送るのは現実的ではない気がしたので、住所があるなら郵便で送ってあげようと思ったのだ。少年はオールから片手を離し、岸辺を指さした。
「あのガートだよ。僕はいつもあそこにいる。だから次バラナシに来るときに写真を持ってきてもらっていい?」
 僕はなんと言ったらよいかわからなかった。この街を自分が次いつ訪れるのか、はたして訪れる日が来るのかもわからなかったが、ただ祈りを込めるように「オーケー」とだけ返事をした。
 
 ボートから下りた後はシヴァ・ゲストハウスに行った。
 マネージャーにトーコちゃんの容態を説明し、私物をいくつか取って届けたいのだがよいかと訊ねた。彼は了解し、一応君のパスポートのコピーだけ取らせてくれと言った。僕はパスポートを彼に渡し、2階にあった彼女の部屋に行って頼まれていた物をピックアップした。
 再び1階に下りると、マネージャーは僕にパスポートを返し、君に感謝するといった意味の言葉を言い、それから幾分厳しい表情になって言った。
「彼女は日本に帰るべきだ」
 彼女がぜんそく持ちだということもマネージャーは知っているようで、インドの空気はよくないから退院したらすぐにこの国を去ったほうがいいと言った。確かにそうかもしれないと思った。しかしそうはわかっていても、あれだけインドが好きで、父親に縁を切ると言われてもなおインドにやって来た彼女にここを去れというのは、なにか残酷なことのようにも思えた。

 シヴァ・ゲストハウスを出た後は、ベンガリー・トラ通りをロード・ビシュヌに向かって歩いた。
 そしてもう少しで宿に着こうかというその時、前方からオートバイが走ってきて僕の目の前で停車した。
 見るとロード・ビシュヌのマネージャーだった。
「これから病院に行くんだろう?」
 そうだと言うと、彼は後ろに乗れ、というジェスチャーをした。僕は言われるがままにオートバイの後部座席にまたがった。
「よし、行くぞ」
 彼はそう言い、アクセルを吹かして勢いよくオートバイを発進させた。
 オートバイは夜のバラナシを疾走した。祝祭の日のせいか、通りでは結婚式のセレモニーのようなものが行われていた。オートバイはそうした人々の間や、リクシャーや、牛たちの間をすり抜けながらスピードを上げて走った。もちろんふたりともヘルメットなどかぶっていない。しかし恐怖はまったく感じなかった。これがインドに着いたばかりの頃だったら、恐れていたかもしれない。しかし何度もリクシャーに乗って彼らのワイルドな運転を経験するうちに、僕はインド人の運転技術にある種の信頼を抱くようになっていた。いや、僕が信頼を抱くようになっていたのはインドという土地そのものだったかもしれない。
「俺はこいつでデリーやダラムシャーラーまで行ったりもするんだ!」
 運転しながらマネージャーが大声で言った。

 インド人はさあ行こうぜ、レッツゴー、というようなことを言うときに「チャロ!」と言う。
 猛スピードで流れていく街の景色を眺めながら、僕は心の中で叫んでいた。
 チャロ!
 チャロ!

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 病院に到着すると、マネージャーは1時間後に病室に行くから先に行っていろと言い、どこかに去っていった。
 2階に上がって病室に入ると、トーコちゃんは目を覚ましていた。
 元気そうだった。顔色も今朝と変わらず悪くない。やはり大丈夫そうだと安心し、宿から取ってきた私物を渡して話をした。

 やがてマネージャーがやって来たので、僕は彼をトーコちゃんに紹介した。
 病室からは簡単な軽食が注文できるようだったので、僕らは何か注文することにした。なんでも好きなものを頼んでくれとマネージャーにメニューを渡すと、彼は僕が食べたことのないライスをベースにした料理を頼んだ。僕とトーコちゃんは飲み物を頼み、それらを食べたり飲んだりしながら3人で話をした。
 マネージャーは自分の仕事の話をし、自分は外国で働きたいのだと言った。
「外国では7時間働いたら7時間分の金をもらえるだろ? インドでは24時間働いたってもらえる金は変わらないんだ」
 彼はそう言い、その内タイに行こうと思っていると言った。オートバイに乗っている最中もデリーやダラムシャーラーに行ったことがあると言っていたが、彼は宿の運営をしながらいろいろな場所に出かけているようだった。ネパールにも行ったことがあるらしく、カトマンズは騙されてひどい目にあったので嫌いだがポカラはいい場所だと言った。当然のことだがインド人も騙されることがあるのだなと思うと、何か面白かった。トーコちゃんもまた、そんな話を興味深そうに聞いていた。
 やがて夜も遅くなったので、僕たちは再び宿に戻ることにした。トーコちゃんには明日バラナシを発つことになったけど、その前にもう一度来るよと言って病室を出た。

 外に出て、オートバイの前に来るとマネージャーが言った。
「帰りはお前が運転して帰るか?」
 もちろん、と言いたいところだったが、残念なことに僕はスクーターしか運転したことがなかった。今ここで自分が運転できたらどれだけ最高だろうと思いながら、また彼の軽快な運転に揺られて宿に帰った。