<Day 23 バラナシ >



               1月28日

 朝方になるとようやく病室への人の出入りが途絶えた。
 2時間ほどゆっくり眠って目覚めたトーコちゃんはかなり元気になり、身体の寒気もすっかり消えたようだった。
 普通に病院内を歩き回ることもでき、昼過ぎになっても容態は相変わらずよかったので、今度こそ本当に回復したのかなと思った。ドクターに訊いても問題はないと言い、看護師も今日には退院できるはずだと言う。
 ドクターが退院後のための薬を用意してくれるようだったので、僕らは病室で話をしながら退院の正式許可が下りるのを待った。

「小さいころからインドの怪しさに魅かれてたんですよね」
 トーコちゃんはインドに興味を持ったきっかけや、以前インドに長期滞在した時のエピソードなどを身の上話をまぜながら話した。過去に大きな病気をして手術などもしているようで、今回の旅にはやはりそれなりの覚悟を持って出てきたようだった。多分これがこうして旅できる最後のチャンス、という昨晩の言葉が思い出された。
「なんでバラナシにいたいんでしょうね。なんかいてしまうんですよね……」
「プシュカルよさそうですね……」
 このようなことにはなったが、彼女はこのまま帰国せず予定通り3月までインドに滞在するつもりのようだった。僕もまた口には出さなかったが、そうしてほしいと願った。それはその身を思えば無責任な願いかもしれなかったが、彼女はなんらかの悲しみを心に抱えている人のように思えた。本当にこれが最後になってしまうのなら、後悔のない旅をしてもらいたかった。

f:id:ryisnow:20160130170250j:plain


 数時間が経ってもなかなか退院の許可は下りなかった。
 看護師をつかまえて訊ねても「あと30分」「あと5分」といった言葉が繰り返され、気がつくと列車の時間が近づいてきていた。
 出発時間は4時25分だった。僕は3時40分まで待ち、それでもドクターが戻ってこなかったので行くことにした。
 退院を見届けられなかったのは残念だったが、急かすようなことではないのでこれは仕方がなかった。病室の外まで出てきた彼女に気をつけてねと言い、別れの挨拶をした。彼女はインドの人たちがよくやるように、両手を合わせて頭を下げ、僕を見送ってくれた。

 リクシャーをつかまえ、駅に向かった。
 渋滞に少しつかまったが、出発10分前となる4時15分に駅に到着し、中に入って電光掲示板を見た。
 僕の列車は「パンジャブ・メイル(Punjab Mail)」という名前の便だったが、掲示板を見ると「17:25」という表示が出ている。午後5時25分。つまり1時間遅れているということだ。ただ気になったのはその便の番号が「130006」と書かれており、僕の予約したチケットの番号は「130010」となっていたことだった。とはいえ掲示板に他にパンジャブ・メイルは見当たらなかったので、まあこれに違いないのだろうと思った。
 僕は発券をしてもらうためにチケットオフィスに行った。
 時間は4時25分になろうとしていたが、僕は焦ることなく椅子に座っていた男からチケットを受け取った。
「この列車は遅れてるんだよね?」
 念のため訊いてみると、そいつはエンクワイアリ(情報窓口)で訊いてくれと男は言った。
 近くにあったエンクワイアリに行って同じ質問をすると、カウンターにいた男は僕のチケットを見るなり叫んだ。
「ゴー! プラットホーム8番だ! ゴー!!」
 僕は走り出した。
 構内を走り、階段を駆け下りて8番ホームに出た。
 ホームに電車はなかった。
 間に合ったかと思い、ホームにいた人に訊ねてみた。
「ああ、その列車なら2分前に発車したよ」
 まさかと思い、別のひとにも訊いてみたが同じことを言われた。
 本当に乗り過ごしてしまったようだった。やはりあの番号違いには意味があったのだ。昨日は2時間45分も遅れただけに、今日も時間通りには来ないだろうとどこかで油断していた。まさか今日に限って時間通りに到着するとは…… 愕然としたが、列車が行ってしまった以上もはやどうすることもできなかった。
 まあこうなってはジタバタしても仕方がない。とにかくチケットオフィスに行って次のチケットを押さえることにしよう、と思いながらホームの階段を上っていると、ひとりのインド人の男が話しかけてきた。
「列車に乗り遅れたんですか?」
「そうだよ」
「ならムガル・サライで追いつけます。あの列車はムガル・サライで1時間停車するんです」
 思わぬ情報だった。彼はどうやらオートリクシャーの運転手らしく、そのムガル・サライという駅まで連れていってくれると言う。
「本当に追いつけるのか?」
「追いつけます」
「いくらで行く?」
「300ルピーで」
「そいつは高い」
 この期に及んで僕は反射的にそう言ってしまった。なんにせよこの列車を逃してしまえばそれ以上の損失をすることは確かだったので、僕は運転手に条件を出した。
「もし間に合ったら300払う。もし間に合わなかったら払わない。それでもいいか?」
 運転手は同意した。そして商談がまとまった瞬間、彼はレッツゴーと言って走り出した。

 駅の外で彼のリクシャーに乗ると、車は全速力でバラナシの街を後にした。
 やがて渋滞につかまったが、ここで彼はこれまでインドで見せつけられてきたリクシャー運転手の本領をいかんなく発揮した。クラクションを鳴らし、右に左にハンドルを切りながら、とにかく車と車の隙間に入り込む。車線の概念がないのでたとえ前方に3台並んでいようが、4台並んでいようが、関係ないのだった。少しの隙間さえあれば彼はそこにリクシャーの頭を突っ込ませ、じわじわとその隙間をこじ開け、1台分前に出る。そしてさらに次の壁もそのようにして突破していく。スペースがあれば歩道の上だってどんどん走る。対向車線にもはみ出す。その運転はもはや芸の域に達しようかというものだった。
 僕はそうした運転手の技術に感嘆しながら、同時にもう流れにまかせようという気になっていた。もし追いつけなければムガル・サライで一泊すればいいだけの話だ。最悪コルカタには31日までに到着すればいい。なるようになるだけだと思うと、むしろ今の状況が面白く感じられてくるのだった。

 リクシャーは5時15分にムガル・サライの駅に到着した。
 運転手と一緒に駅の中に駆け込み、列車の状況とプラットホーム番号を調べようとした。その様子を見たひとりの男が話しかけてきたので、チケットを見せて訊いてみると、彼はどれどれといった感じでチケットをのぞきこんだが、その瞬間顔色がさっと変わり、僕の背中をバンッと叩いて言った。
「ゴー! クイック!!!」
 僕らは再び走り始めた。運転手が調べてくれたプラットホームに駆け下りると、列車はまだホームに停まっていた。
 どうやら今度は本当に間に合ったようだった。
 乗るべき車両まで案内してくれた運転手が言った。
「アイム・グッド・ドライバー、イエス?」
「ユー・アー・ファンタスティック!」
 僕はそう答え、300ルピーにさらにチップを少し上載せして渡し、礼を言った。

 コルカタ行きの列車もまたアーグラから乗ったのと同じSLシート、つまりA/Cなしの3段寝台だった。寝床の場所は今回もまたアッパーバース、上段だった。
 シートが向かい合わせになった6人掛けボックスには、仲間連れらしいインド人の男が数人座っていた。軽く会釈をして、バックパックを上段の寝台に放り投げると、僕も彼らの中に混ざって座った。
 とにかくこれであとはコルカタに行くだけだ。動き始めた窓の外の景色を眺めながらようやく一息つき、日記を開いてここ数日の出来事などを記し始めた。

 しばらくすると隣に座っている男がなにやら独り言を呟き始めた。発音にクセがあるので最初は何をブツブツ言っているのだろうと思っていたが、やがてそれが英語であることに気がついた。しかもどこかで聞いたような単語が次々と耳に入ってくる。
「アフター・ザ・グッド・ツーアワーズ・スリープ、シー・ルックド・ファイン……」
 彼は僕の日記を声に出して読んでいた。
「アー・ユー・リーディング・マイ・ダイアリー?」
 と言うと、まわりの男たちがわっはっはと笑った。頭の中をなるべく英語にしておくために、旅の間は英語で日記を書いていたのだが、それを横から読まれるとは思わなかった。こら、見るんじゃないと、わざと大袈裟に日記を隠すようなジェスチャーをすると、男たちはさらに笑い、「そう、そうしておくべきだ」と言った。

f:id:ryisnow:20160130171806j:plain

 インドでは本当に他人との距離が近いというか、列車内で乗り合わせた人々の間にも壁というものがなかった。横に置いていた新聞を、向かいの席の客が何も言わずに取り上げて読み始めるといったことはこれまでに何度もあったし、日本では当たり前の「ここからは私の空間です」といった概念は基本的に存在していないように思えた。
 また彼らは遠慮なく人をじーっと見る。持っている本だったり、携帯電話についているストラップだったり、何か興味深いものを見つけると、とにかくじーっとそれを見ていたり、挙句の果てにはおもむろに手に取ったりする。もちろん何の言葉も交わしていない人がだ。その視線や行動に気づいたこっちが見返しても微動だにしない。やがて「これはなんだ」と訊いてくるときもあったし、そのまましばらくした後に黙って立ち去るときもあった。別に不自然なことをしているという自覚はないようだった。そのうち僕にもそのクセがうつってきて、何か気になるインド人がいるとその様子をじーっと眺めるようになった。彼らは見ることを気にしないのと同時に、見られることも気にしないということがわかってきたからだ。
 いずれにせよ僕は日記を書くことを諦め、彼らと話をしながら時間を潰すことにした。


 やがて男たちはどこかの駅で降りていき、代わりに家族連れが乗ってきて入れ替わった。外はすでに暗くなっていた。僕は梯子を使って上段シートに登り、アーグラで買ったアーミー毛布を取り出すと、横たわって少しうつらうつらした。

「いや、バブル期の日本はすごかったんだよ」
 ふいに近くから日本語が聞こえてきた。
 どうやら壁をはさんだ反対側のボックスに日本人がいるようだった。そしてああ、さっきの彼だなと思った。少し前にトイレに行ったときに、ひとりの日本人と会って軽く挨拶を交わしていたのだ。眼鏡をかけて丸い顔をした、人のよさそうな男性だった。
 彼はどうやら日本人の女性と一緒に列車に乗っているらしく、彼女に対して話す声が壁を通してそのまま聞こえてきた。
「チアキちゃんにあのバブル期の日本てのを経験させてあげたかったなあ。あれは本当に面白い時代だったよ」
 トイレで会ったときは自分とさして変わらない年齢のようにも見えたが、バブル期という話の内容から想像するに彼は40代くらいなのだろうと思われた。そしてチアキちゃんというのはそれに比べて若い子なのだろうな、一体どんな関係なのかなと、話を聞きながらつい余計な想像をした。
 そんな風にして会話を聞いていると段々腹が減ってきた。考えてみれば朝からろくに食べていなかった。それに空腹を感じた理由はもうひとつあった。下からカレーの匂いが漂ってきていたのだ。
 シートから身を乗り出して下を見ると、さっき乗ってきた家族連れがカレーとチャパティを食べていた。どうやら横になっているうちに、例の食事売りがやって来たらしい。僕は下にいるひとりの男に声をかけ、自分もそれがひとつほしいのだがとジェスチャーで頼んだ。
「アイム・ハングリー」
 とお腹をさするような動作をすると、彼は了解したという風に頷いた。
 食事はすぐに届いた。しかし持ってきた男に金を払おうとすると要らないという。はじめは最初に声をかけた男が払ってくれたのかと思ったが、やがてそうではないことがわかってきた。食事を持ってきた男も含め、彼らはひとつの家族か親戚か何かだったのだ。彼らはいくつかのシートに別れて座っており、自前で用意した夕食を分け合って食べていた。僕は厚かましくもそれをくれと言ってしまったというわけだった。
 これは申し訳ないことをしたと思ったが、すぐにいや素直にいただくことにしようと思い直した。彼らが無理をする風でもなく、自然に僕の分を届けてくれたということもある。そして何よりこれがインドの距離感なのだということを僕自身が受け入れ始めていた。もちろんそれに甘えすぎるのはよくないと思うが、僕はもっと食べろとチャパティを勧めてくるおばさんに遠慮なくお代わりを頼み、満腹になるまで美味しい夕食をいただいた。
 食べ終えてまた上段に登り、顔を出して「アイム・ハッピー」と言うと、下にいるみんながニッコリと笑った。