<Day 24 列車 ~ コルカタ >



               1月29日

 7時頃に目が覚め、下段のシートに下りた。
 車両にやって来たチャイ売りから5ルピーでチャイを買い、それを飲みながら窓の外の景色を眺めた。
 今日も晴れていたが、空気が少し白く霞んでいる。考えてみればバラナシではこうしたスモッグがほとんど発生していなかった。あの街の開放感は、抜けるような青空が毎日広がっていたことも理由のひとつだったのだなと思う。

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 カメラを出して外の写真を撮っていると、昨晩食事を頼んだ彼が自分たちの写真も撮ってくれと言ってきた。彼は20代半ばくらいのなかなかハンサムな男で、彼やその妹の写真を撮ったりしていると、他の面々からも次々に写真を頼まれ、しまいには親戚一同を含めた撮影パーティのような感じになった。

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 彼らは結婚式に出るためにコルカタに行く途中とのことだった。
 話しているうちに君も是非結婚式に来てほしいと言われ、連絡先や式場の場所を教えてもらった。コルカタでの予定が読めなかったこともあり、おそらく行けないと思うと返事をしたが、ここでもまたインド人のオープンさを感じた。そしてもしこの結婚式に参加すれば、それはそれでまた面白い出来事が待っているのだろうなと思った。

 旅はこうした選択の繰り返しだった。
 何がベストかはわからない。時にはやり直しはきかず、時には変更がきく。いずれにせよ、とにかく選択していくしかない。そしてその選択に身をゆだねていくしかなかった。

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 やがて列車がコルカタに到着した。
 家族連れに別れを告げ、ハウラー駅という名のなかなか立派な駅の構内を抜けると、外にはたくさんのタクシーが止まっていた。オートリクシャーはあまり見当たらず、声をかけてくるのはタクシー運転手ばかりだった。それがなにか、この街の大きさを感じさせるようだった。
 コルカタにはサダル・ストリートという安宿が集まる一画があるとのことだったので、ひとりの運転手にそこまでの値段を訊ねると100ルピーで行くと言った。実際どれぐらいの距離があるのかわからなかったが、つまり相場は100ルピーより安いのだろうと思い、少し交渉して80ルピーで行ってもらうこととなった。
 タクシーに乗るのは、旅の初日のデリーの空港以来だった。あのときと同じような黒塗りのタクシーに乗り込むと、車はまず駅の前を流れていた大きな河を渡り、続いて市街地を走り始めた。バラナシに比べれば大分にぎやかだが、いわゆる大都会という感じはしなかった。喧噪のレベルという意味ではデリーやジャイプルと同じくらいだが、どことなく景観が落ち着いているようにも見える。

 15分ほどでサダル・ストリートに到着した。
 タクシーを下りるとすぐに話しかけてきた男がいたので、とりあえず路上にバックパックを置いて座り、休憩がてら彼と話をした。彼は宿に案内すると言ったが、それは必要ないと言って断り、タバコを数本吸った後にひとりで周辺を歩いてみた。
 サダル・ストリートはのんびりした雰囲気の場所だった。車がぎりぎりすれ違える幅の通りの両脇にレストランや宿が立ち並び、路上に出されたカフェの椅子には多くの旅行者たちが座って話をしていた。道を歩く人々も旅行者が多く、この一画全体が旅行者の小さな集落かなにかのような感じだった。それに心なしかアジア人の比率が多いようにも見えた。
 僕は何軒かまわった後に、パブの入った建物の2階にあった「スーパー・ゲストハウス」という宿に部屋を取った。白を基調にした小奇麗な部屋で、値段は650ルピーとそれなりにした。

 バックパックを置いて外に出ると、さっき話しかけてきた男にまた会った。
 宿はもう決まったよと言うと、それならチャイでも飲もうかという話になり、近くのチャイスタンドに行ってチャイを買った。
 細い路地に置かれていたベンチに座り、チャイを飲みながら彼と世間話をしていると、
「あのーすみません」
 と日本語で声をかけられた。視線を上げると日本人の男が2人と、女が1人立っていた。そして声をかけてきた男はなんと、バラナシのインターネットショップで日本語オンリーでプリントアウトをし、駅でも日本語オンリーでチケットを予約していたあの彼だった。もうひとりは彼と駅で一緒にいた女の子で、もうひとりは見た記憶のない、これも20代半ばか後半くらいの男だった。
「ボクら今日コルカタに着いて宿を探してるんすけど、どっかお勧めとかありますか?」
 そう訊ねられ、いや自分も今日着いたばかりなんだと答えた。
「マジっすかー。なんか長くここにいるのかと思いましたよー」
 バラナシで一方的に見ていたときは正直チャラそうな男だなと思っていたのだが、話してみると彼はわりと素直そうな性格をしていた。バラナシで何度か君を見かけたよと言うと、
「マジっすかー。バラナシさいっこうっすよねー!」
 と言い、コルカタに何日か滞在した後はまたバラナシにUターンしようと思っていると言った。
 ちなみににどんな宿を探してるのと訊いてみると、
「できればドミトリーがいいです」
 と彼は言った。僕はふと思いついて、一緒にチャイを飲んでいた男に何かいいところはあるかと訊いてみた。すると彼はある、と言って歩き始めた。どんな宿か興味があったのと、この男が万が一怪しい人間だったら困るなと思い、僕も一緒についていくことにした。

 男が案内した宿は、サダル・ストリートの角を曲がって50メートルほど行ったところにあった。階段を上がった2階が入口になっており、中に入ると比較的広い空間にたくさんの2段ベッドが並べられていた。
 考えてみればこの旅では一度もドミトリーに泊まっていなかった。シングルでも十分安かったというのがその主な理由だったが、久しぶりにドミトリーの中に入ってその空気を感じると、なんとなく自分もドミトリーに泊まりたい気分になってきた。今晩は宿泊代をすでに払ってしまったが、インド最後の宿泊となる明日はどこかのドミトリーで過ごすのもいいかもしれないなと思った。
 連れてきた彼にどうかなと訊くと、よさそうなのでここにしますと言うので、それじゃあよい旅をと言って別れた。

 宿を出てまたサダル・ストリートを散歩していると、別のインド人が声をかけてきた。
 まだ20かそこらの若そうな男で、口ひげを生やし、金のネックレスをつけ、黒字に「中央大学」と白い文字でプリントされたTシャツを着ていた。チンピラくずれのような、いかにもテキトーそうな感じの男だったが、ついてくるので歩きながら話をした。自分には日本人の彼女がいると言うので、どうやって知り合ったのと訊くと、彼女はマザーハウスでボランティアをしているのだと言った。

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 マザーハウスというのは「カルカッタ(コルカタの旧称)の修道女」として知られたマザー・テレサが貧しい人々に奉仕するために作った施設で、もはや回復の見込みのない人々などを引き取ってその死を看取っていることから「死を待つ人々の家」とも呼ばれている場所だった。この「中央大学」の彼によると、そこでは多くの日本人がボランティアとして働いているのだと言う。
 君もそこで働いているのかと訊くと、自分はそういうことはしない、とあまり興味がなさそうに言った。自分は親戚が店をやっているのでそれを手伝っていると言ったが、要はこのサダル・ストリートをブラブラしながら旅行者に声をかけて店に連れていくのが彼の仕事のようだった。しかもそれすらあまり熱心にやっているようには見えず、僕について歩きながらビールを飲みに行こうとか、どこかに遊びに行こうとか誘ってくるのだった。
 彼は名前をワシムと言い、自分はイスラム教徒だと言った。これまでヒンドゥー教を信仰するインド人には数多く会ってきたが、イスラム教徒のインド人と話をしたのは初めてだった。もっともビールを飲もうと言ってくるあたり、あまり熱心な信者ではなさそうだったが。
「どこかこのへんに面白い場所はない?」
 と訊ねると、それならニューマーケットはどうだと言ってきた。ニューマーケットというのはこの近くにある市場のような場所らしい。面白そうだと思ったので、行ってみることにした。

 ニューマーケットはなかなか活気のある場所だった。
 まず行ったのは天井の高い倉庫のような広い空間で、そこでは解体された肉がいくつかのテーブルにどさっと載せられ、それを人々が包丁でさばきながら売っていた。複数の肉屋が集まったようなその空間は、観光客相手というよりは、地元の人の買い出しの場といった印象だった。

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 そこを抜けると今度は土産物屋がひしめき合うように並ぶ一画があった。
 ワシムの親戚の店もその中にあるらしく、連れられてその店に行ってみると、そこは紅茶の葉っぱや置き物などを売る店だった。人のよさそうな小太りの中年のおじさんがカウンターに立っており、彼がワシムの親戚のようだった。ちょうど帰国してからもチャイを飲みたいと思っていたので、僕はそこで自分と友人のためにお茶の葉を少し購入した。小太りのおじさんは測り分けたお茶の葉をいくつかの袋に詰めながら、夕方になったら仕事が終わるからよかったらその頃にまた店に来なさいと言った。

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 その後はまたワシムと一緒に近くをぶらぶらした。
 「いつか日本に行くつもりだ」、「女は日本人が最高だ」などと調子よく話し続ける彼の相手をしつつ、僕らはやがてニューマーケットを出て、サダル・ストリートに抜ける路地に入った。
 数十メートルほど歩くと、路上で立ち話をしていたひとりのおじさんがワシムを見てなにやら激しい剣幕でわめきたて始めた。
 どうやらおじさんは彼の知り合いのようだった。何事が起きたのかとしばらく眺めていると、おじさんはいきなり彼の頬を思いっきり平手で引っ叩いた。しかも1発では終わらず、4発、5発と彼の頬を張り続けた。
「ウェイト、ウェイト!」
 慌てて止めに入ると、ワシムはいやいいんだと言い、おじさんとは視線を合わさずに行こう、と僕をうながした。
「こいつは詐欺野郎だぞ!」
 おじさんが僕のほうを見て叫んだ。
 何が起きているのかよくわからなかったが、僕らは集まってきたインド人や観光客の中から逃げるようにその場を立ち去った。

「オレはあいつに2000ルピー借りてるんだ」
 しばらく歩いた後に彼が言った。おじさんに引っ叩かれたとき、僕は彼が逆上して殴り返すのではないかと思ったが、彼の反応は思いのほか大人しかった。すっかり勢いのなくなった彼を見ながら、やっぱりこいつはテキトーな生活をしているのだろうなあと思ったが、まあ元気を出せ、借りた金は返さないとダメだぞ、とありきたりな慰め言葉をかけた。
「アンタ2000ルピー貸してくれるか?」
 ふっと振り向いた彼にそう訊かれ、貸すわけないだろうと言うと、そうだよなと彼は言い、また前を向いた。

 夕方になり、再びニューマーケットにあるワシムの親戚の店に行った。
 小太りのおじさんは仕事が終わったので、カーリー寺院に案内してあげようと言った。コルカタでは有名な観光場所だと言うので、それならと行ってみることにし、僕はおじさんとワシムと3人で地下鉄に乗り、数駅離れた場所にあるという寺院に向かった。
 おじさんは椅子に座り、僕とワシムは少し離れたところに立って電車に揺られた。
「俺のせいだから仕方がないんだ。そうじゃなかったら殴り返していたさ」
 と相変わらず意気消沈した様子のワシムは言った。

 夕暮れ時のカーリー寺院は多くの人で混み合っていた。
 寺院の中に入るための列に少し並んでみたが、その人混みになんとなく疲れを感じた僕は、列から離れて外から寺院を眺めることにした。

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 寺院のまわりには様々な店が立ち並び、路上では小さな女の子たちが石けりのような遊びを行っていた。暮れていく太陽をバックに遊びに興じる彼女たちの姿をしばし眺めた後、僕はもう満足したからそろそろ帰ろうと2人をうながした。移動の疲れからなのか、なにか身体に粘りがないように感じた。

 地下鉄の駅で電車を待っていると、また少し疲れを感じた。ワシムが今晩ビリヤードをやりに行かないかと言ってきたが、お前金ないだろと言い、とりあえず今晩は宿に戻ることにすると答えた。
「あいつに2000ルピーを返したら、オレは言ってやるんだ。二度とオレに話しかけるなって。あいつはオレを叩いた。金のために人を叩くやつなんか、もう話さなくたってかまわない」
 ワシムはいまだに叩かれたことを気にしているようで、何度かその話題を持ち出した。

 宿に戻ると激しい疲れを感じ、ベッドに横たわった。
 身体が痛く、少し熱があるようにも感じた。旅の終わりが近づいたことで気が緩み、風邪でも引いたのだろうか。
 時刻はまだ6時半だったが食事に出かける気力が起きなかったので、カバンに入っていたチョコレートを少し食べただけで、そのまま眠りについた。