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<Day 1 デリー >



                   1月6日 
                
 成田からシンガポールを経由した飛行機は、現地時間の午前11時頃にデリーの空港に着陸した。
 デリーは曇っていた。滑走路に停止した飛行機の窓から見る風景は、全体がなにやらうっすらと煙に包まれているように白っぽかった。インドに着いたのだ……そう思うものの、何か実感がわかない。とにかくタバコが吸いたいと思いつつ、飛行機の外に出た。 

 なぜインドだったのか。
 元々インドという国にそこまで強い関心を抱いていたわけではなかった。いつかは行ってみたいと漠然と思ってはいたものの、もっと行きたい国が他にあり、なんとなく後回しにしていた場所だった。ただいずれ行くのであれば、早いほうがよいのだろうなとは思っていた。
 インドというのは外国の中でも特にユニークで、日本とは大きく異なる国として語られることが多い。行くと人生観が変わる、などといった言葉には正直胡散臭いものを感じなくもなかったが、それでもインドという国には何かがあるのだろうとは思っていた。
  だからインドのような国は、なるべく自分が柔軟なうちに行ったほうがよい気がしていた。年齢を重ねて心が頑固になってしまえば、あまりに異質な価値観を受け止めきれずに、自分の殻に閉じこもってしまうかもしれない。そうなれば、いろいろなものを目にして、それなりに感動することはあっても、その経験が僕自身の根幹に大きな影響を及ぼすことはなくなるだろう。
 だからこそ9年ぶりに海外に行くと決めたとき、それならばまずインドに行っておこうと思ったのだった。
 34歳という年齢は、もはや遅すぎたのではないかと感じつつも。

 デリーの空港は国際空港にしては幾分小ぶりで、日本の地方都市の空港とさほど変わらないスケールのように見えた。僕は預けていたバックパックを回収し、近くにあった両替カウンターで50ドル分をルピーに両替した。
 インドに着いたらどんな光景が待っているのだろうと思っていたが、空港内ではまだそれまでの空気の延長が続いているように感じた。成田空港に着くとそこから半分外国が始まっていると感じるように、国際空港というのはその中の半分はその国ではない雰囲気があるので、本当のインドはやはり外に出てから始まるのだろう。
  宿などは決めていなかったものの、デリーではコンノート・プレイスという場所が街の中心部になっており、とりあえずそこに行けばよいということは情報として得ていた。歩いて行ける距離ではなさそうだったので、まずはタクシーかバスを探さなくてはならない。9年ぶりの異国ということで多少の緊張感はあったものの、まあなんとかなるだろうと、空港のドアから外に出た。

 次の瞬間視界に入ってきたのは、白く霞んだ空気の中で叫ぶ30人から40人くらいのインド人の集団だった。すぐにそれがホテルやタクシーなどの客引きだということに気づいたものの、その迫力のある光景に僕は一瞬棒立ちになった。
 空港の入口からは、数十メートル先のターミナルまで道が続いていた。厳密に言うとそれは道ではなく、開けた空間の両脇に柵が立てられているだけだったのだが、いずれにせよ入口から出た旅行者はその柵の間をまっすぐ前方に歩いていくことになる。
 インド人たちは両脇から柵に押し寄せ、そこを通る旅行者に言葉をかけ続けていた。排気ガスや土煙で霧がかかったようになっている視界の中で、彼らはプラカードのようなものを指差したり、体をつかんで引き止めようとしたりと、身振り手振りを駆使しながら必死のアクションを行っていた。旅行者としては、まるで格闘技の花道を歩くような状態だ。
 それは現実離れした光景のように見えた。多分それは彼らの姿が白く霞んでいたからではないかと思う。白く霞んでいる。それが僕が最初に感じたインドだった。
 これがインドか……
 これまで数えきれないほどの旅行者が呟いたに違いない言葉が、僕の頭にもまた浮かんだ。とにかく前に足を進めてターミナルには出たものの、自分の心が動揺しているのを感じる。たった今見た光景に、どうやら圧倒されてしまったらしい。ざっと見回してみたがタクシー乗り場がどこなのかも、どのバスに乗ればコンノート・プレイスに行けるのかも、よくわからなかった。
 普段だったらそのへんの人に聞くところなのだろうが、うかつな行動をするとあの集団に見つかって取り囲まれるのではないか、という警戒心が働いてしまう。平静を装い、いかにも自分はやるべきことをわかっていますよ、といった表情をしながらチラチラとまわりをうかがってみるものの、やはり要領がつかめない。
 僕は困ってしまった。いくつかの事情があって9年間外国に行く機会がなかったとはいえ、昔はよく旅をしていたし、多少は旅慣れている気もしていた。しかしデリーの空港のターミナルで、これは本当にどうするべきか、と思った。

 仕方なく僕は一旦空港内に戻った。そして入口近くにあったカフェに行き、コーヒーを注文した。
 とにかくまずは一息ついて、落ち着こう。そしてさっき外で感じた空気を自分の中に染み込ませ、慣らし、その上でもう一度外に出て行こう、とにかくこの国の中に入っていかないことにはなにも始まらない。そんな風に思って自分を立て直そうとした。
 コーヒーを飲みながら持参したガイドブックを開いてみると、空港からはプリペイド・タクシーというものが使えることがわかった。これは何かと言うと、空港の外にあるカウンターで行き先を伝え、あらかじめ料金を払う。そして渡された紙をタクシーの運転手に渡せば、その行き先まで連れてってくれるというものだった。そうすることで後から法外な料金を請求されたり、交渉時のトラブルなどを防ぐことができるという。僕はこれを利用してみることにした。

 再度空港の外に出てあたりを見回すと、確かにそれらしきカウンターが見つかった。カウンターの前に立ち、コンノート・プレイスに行きたいと告げると320ルピーだという。1ルピーは約2円なので約640円ということになる。
 高いのか安いのかよくわからなかったが、空港がやっているサービスなのでこれが妥当な値段ということなのだろう。クセのある英語のアクセントを聞き取るのに苦労しつつも、手書きで「320」と書かれたピンク色の紙を受け取ると、横に止まっていたタクシーの運転手に紙を見せ、車に乗り込んだ。

 

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 真っ黒な色をしたタクシーは空港のターミナルを出ると、開けた一本道を走り出した。空港の喧騒が背後に遠ざかり、ようやく少し落ち着いた気持ちになる。
 タクシーの窓は開いたままで、入ってくる外気はなかなかに冷たい。しかしそれが心地よくもあり、興奮していた体がゆっくりと醒めていく気もする。インドというと暑いイメージがあったが、この1月のデリーの冷え込みは関東の冬とさほど変わらないように感じた。
「随分寒いねえ」
 運転手に話しかけてみた。
「イエース、ベリーコールド。でもここ数日は特に寒くて、普段はこんなことはないんだ」
 運転手は27歳で、コルカタ(旧称カルカッタ)の出身だと言った。宿は決まっているのかと聞かれたので、決まってはいないが行く場所はわかっている、と曖昧な返答をした。
 すると彼はそうか、といった感じでその後は何も言わなかった。が、ふいにダッシュボードに置いてある携帯電話を使ってどこかに電話をかけ始めた。そらきたぞ、きっとどこかの宿に電話をかけているに違いないと思ったものの、何も言わないので、そのまま静観していた。電話はなかなか通じないようで、信号で車を止める度に別の番号にかけなおしたりしていたが、結局どこにもつながらなかったようだった。

 1時間ほど乗ったところで車が止まった。
 ここがコンノート・プレイスだと運転手が言い、本当に宿はいいのかと訊ねる彼に大丈夫だからと言い、チップを渡した。下りる際にしつこく粘られるのではないかと身構えていたら、運転手はチップを受け取るとあっさりと去っていった。
  随分あっさりとしていたな、などと考えていると、ふと自分が今チップとして渡したのは100ルピー札ではなかったか、という気がしてきた。着いたばかりでまだ紙幣の種類や価値が把握しきれておらず、まあこんなものかと渡してしまったが、考えてみればタクシー代が320ルピーなのだから、その3分の1近い額をチッ プで渡してしまったことになる。
 あの運転手は何気ない顔を装っていたが、ひょっとしたら僕が間違いに気づく前にさっさと走り去ってしまおうと思ったのかもしれない。だからあんなにあっさりしていたのではないか。
 そう考えると自分がいかにも無知な旅行者のようで悔しさが湧いてきたが、今更どうにもならなかった。
                  
 コンノート・プレイスは中心部に道路が円を描くような形、いわゆるラウンドアバウトのような状態で走っており、その円形の道路の外側に沿うようにして、土産物屋やレストランなどが立ち並んでいた。
 しかし建物はところどころ崩れていたり、工事をしているところなども多く、全体的に荒れ果てた印象を受けた。またそうした工事の影響もあるのだろうか、周囲一帯に土煙が舞い、ここでもまた視界がうっすらと白く霞んでいた。
 中心部の円の内側は芝生が敷きつめられた公園のようになっており、そこでは暇そうなインド人たちが談笑していたり、多くの浮浪者らしき者たちがうずくまるようにして座っていた。
 安宿はどこにあるのだろう……
 どこかにバックパッカー向けの安宿が集まる一画があるはずなのだが、それがどっちの方向にあるのか、よくわからなかった。

 わからないままに円形道路に沿って歩いていると、20代くらいの男が口元にニヤリと笑みを浮かべながら話しかけてきた。
「デリーに着いたばっかりか? どこに行くんだい?」
 そう言って彼は僕と並ぶようにして一緒に歩き始めた。
 なんだかへんなのが来たなと思いつつ、歩みを止めずにてきとうに返答をしていると、彼はひとりでいろいろと話し続けた。自分の名前は「ラッキー」で、今は休暇の最中で時間があるから、ここで困っている旅行者たちの案内をしている……等々。
 へえーそうなんだ、などと半信半疑で聞いていると、前方からいかにも「ばったり出会った」といった風に、彼の友人を名乗る男が現れた。彼はラッキーから話を聞くとフムフムと頷き、同じようにどこに行きたいのだと聞いてきた。うさん臭いとは思ったものの、聞いてみるだけ聞いてみるかと、安宿を探していることを告げた。
「だったらツーリストオフィスに行くのがいい」
 そう彼は言った。
 その提案自体は別におかしなものではなかったが、ラッキーのアプローチの仕方といいこの男の登場の仕方といい、絶対に何か裏があると思い込んでいた僕は、素直に忠告に従ってそこに行こうという気にはなれなかった。彼はしきりにそのツーリストオフィスの場所を説明していたが、反応が薄いと感じたのかふいに話題を変えてきた。
「ワタシは、オチャヤさんにハタライテますよ」
 それは日本語だった。とっさに「あ、日本語しゃべれるんだ?」と言い返しそうになったが、そうしたリアクションはなんだか向こうの狙い通りのような気がしたので、僕はあくまで英語で会話を続けつつ、オチャヤ……お茶屋か、お茶の葉っぱを売る店か何かのことかなと考えた。インドのお茶と言えばチャイ、いわゆる紅茶だろうから、その言葉を信じるなら彼は紅茶の葉を売る店か何かに勤めているということなのかもしれなかった。
 へえお茶屋さんね……などと返答していると、今度は彼がチャイを飲もうと言い出した。この近くに行きつけの店があるからそこで一杯飲もうじゃないかと。
 それは面白いかもしれない、と思った。どう見ても胡散臭い2人組だとは思っていたものの、現地の人間とチャイを飲むということには正直惹かれるものがあった。
 その店はどこにあるのと聞くと、彼らはやや勢いづいた様子で「カモン、カモン」と言って歩き出した。

 2人は円形道路から離れると、近くの裏路地に入っていった。その路地の人気のなさにやや警戒心を抱いた僕は、もう一度店の場所を尋ねた。
「あそこだよ、あの先に見えるあの店さ」
 言われたほうを見ると、確かに路地を少し進んだ道の脇に一軒の店があった。数メートル歩いて店に近づいてみると、テーブルが2つ3つ置かれた薄暗い店内に5、6人のインド人がいるのが見えた。また店の前の路上にも数人のインド人の集団がたむろしていた。ぐるっと見回しても、自分以外に観光客は見当たらない。
 僕はその様子と大通りまでの距離を測り、ここまでかなと思った。そしてラッキーとその友人にやはりやめとくよと言うと、引き止めようとする彼らを振り切って大通りへと戻り、そのまま別の方向へ速足で歩き続けた。
 ひょっとしたらなんてことのない普通の店だったかもしれない。彼らが何を目論んでいたにせよ、それほど悪意に満ちたものではなかったかもしれない。しかしインドに着いたばかりの自分には、その微妙なラインを判断する力がまだなかった。今起きた出来事が一体なんだったのか、わからないままに僕はさらに歩き続けた。

 そうして歩く内にも、実にいろいろな人間が声をかけてきた。特に多かったのが、なぜか僕のあごヒゲを褒める男たちと、履いているスニーカーに目をつける男たちだった。
 たとえば道の脇に座っている若者が、ニヤニヤと笑みを浮かべて話しかけてくる。
「ナイス・シューズ。キャナイ・チェンジ?(いい靴だね、交換しないか?)」
 おいおいいきなり交換かと思いつつ、何度かそんな言葉をかけられるうちに、これは履いてくる靴を誤ったかなと思った。
 僕が履いていたのは数か月前に購入したばかりのナイキのランニングシューズで、新しい上に色が蛍光グリーンなので、確かに目立つだろうという気がした。そこで僕は路上に溜まっていた土の小山に近づくと、その中に足を突っ込み、靴をその土で汚した。バックパックを背負っているし、真新しい靴を履いているし、僕の姿は彼らにとっていかにも到着したばかりの旅行者といった風にうつっているに違いなかった。

 これは早く荷物を置きたいものだと思いながら歩いていると、また横に並ぶようにしてついてくる男がいた。今度も若い男で、名をアネルと言った。自分は学生だと言い、ラッキーやその友人にくらべると朴訥で胡散臭さは薄かったものの、話していると彼も同じようにツーリストオフィスに行くよう主張してくる。場所もやはり同じだ。そして彼もまた言った。
「ワタシはオチャヤさんでハタライテマス」
 これは一体なんなのだろう。このオチャヤさんが大量の客引きを雇っているのか、それともこうした者たちの間に日本人用のマニュアルのようなものが出回っているのだろうか? しつこく食い下がるアネルを説得して別れたあとも、僕の思考は次々に発生する出来事を整理しきれないままに回り続けた。

 そんな経験をしながらコンノート・プレイスの周辺をしばし歩き回ったものの、なかなか安宿が見つからなかった。誰かに訊ねても全然別の場所に誘導しようとするので、どうにもうまくいかない。バックパックからガイドブックを出して調べることもできるのだが、こんなところでそんなものを取り出して読んでいたら、それこそどんな輩がやってくるかわからない気がした。止まっているときまって誰かが話しかけてくるので、ひたすら歩き続けていたものの、さすがに少し疲れてきたので一旦休憩することにした。

 中央にある円形道路まで戻り、道の脇でタバコをふかしていると、ふと横で同じようにタバコをふかしている、工事現場の作業員らしきおじさんの姿が目に止まった。おじさんは隣にいる僕に話しかけることもせず、特に関心のなさそうな様子だったので、この人だったら余計なことは言わずに場所を教えてくれるのではないかと思った。
 訊ねてみると、おじさんは期待したとおり安宿の集まる場所を教えてくれた。そこは「パハール・ガンジ」と呼ばれる一画で、コンノート・プレイスから北にしばらく行ったところにあるという。
 途中でもう一度道を訊ねたりしながら、教えられた方角に10分ほど歩いていくと、確かにそこには安宿がゴチャッと集まったような通りがあった。

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 パハール・ガンジ、通称「メインバザール」は、ニューデリー駅の目の前から西に向かってのびている道を指すようだった。
 一本の道の両脇に安宿や土産物屋、食堂などがひしめくように並んでいる雑多な一画で、コンノート・プレイスとはまた違う雰囲気を醸し出していた。またバックパッカーの集まる場と言われているだけに、一帯には旅行者とそれを相手にする者たちが作り出す独特の空気が漂っており、多少はなじみのある場所に来たような安心感を覚えなくもなかった。
 とにかく早く荷物を置きたかった僕は、入口の近くにあった宿に何軒か入って値段を聞いたのち、感じのよさそうなおじさん2人がフロントにいた宿に部屋を取った。一泊350ルピーと言われたところを交渉して300ルピー(約600円)にしてもらい、2日分の料金を払うと、2階にある部屋に入って荷物を置いた。

 部屋はいかにも安宿といった感じで、ダブルベッドがひとつあり、その横に小さなテーブルが置かれていた。小型のブラウン管テレビもあるが、ほとんどまともに映らない。シャワーは冷水しか出ず、温水が欲しい場合はバケツに入れて用意すると言われた。インドの安宿では温水がなかなか出ないということも聞いていたので、まあこんなものだろうと思った。なによりコンノート・プレイスに着いて以来続いていた、いつ誰が話しかけてくるかわからない緊張状態から解放されたことが有り難かった。

 

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(メインバザールの入口近くにある、インドで最初に泊まった宿)


 ようやく一息つくと、あらためて自分はインドにいるのだということが実感されてきて、僕はしばし呆然とした。
 とはいえ日が暮れるまでにはまだ大分時間がありそうだった。いつまでも部屋にいるのも勿体ないので、荷物を置いた身でメインバザールの周辺を散策してみることにした。

 通りに出て、メインバザールの奥に向かってひたすら歩いた。
 メインバザールはコンノート・プレイスの付近に比べると道が狭く、舗装はされているものの、いわゆる車道といった感じではない。路上には食堂の椅子やテーブルが並べられていたり、屋台が立っていたりと、人々が比較的自由にスペースを使っている印象を受ける。歩く人々もまた道路の好きなところを歩いている。
 とは言え車両の往来がないわけではない。
 むしろこんな場所にどうしてこれだけの車両が侵入するのかというくらいに、数多くのバイクやオートリクシャー(オート三輪)やサイクルリクシャー(自転車を使った人力車)、乗用車などが人々の合間を縫うように走り回っていた。
 その様子はなかなか凄まじいもので、もちろん車線の概念などはない。前方に向かうバイクも向こうから来るリクシャーも、人ごみの隙間を見つけつつ、時には屋台の後ろなどもすり抜けながら、とにかく空いているスペースに飛び込みながら走ってくる。1メートルほどしかないような幅の路地に突っ込んでいくバイクもいるし、一体どうやってその道に入ったのだというくらいに狭い道から乗用車が出てきたりもする。そしてバイクやオートリクシャーなどは常に走りながらクラクションを鳴らし続けているため、人間と車両に溢れるメインバザールの通りは、「ビーッ!ビーッ!」という間断ないクラクション音によって包まれていた。
 また路上にいるのは人や車両だけではなかった。
 至るところに牛がいた。開けた場所に数頭で集まっている牛たちもいれば、フラフラと1頭で路上をさまよい歩いている牛もいる。そしてそんな牛をよけるように、多くのインド人や、旅行者や、バイクや、リクシャーが、交通ルールなど皆無だと言わんばかりに通り抜けていく。土煙を巻き上げ、「ビーッ!ビーッ!」という音を響かせながら。
 それはカオスと言う以外に表現しようのない光景だった。

 こうした光景を、ある程度予想はしていた。予想はしていたとはいえ、予想そのままあるいはそれ以上のカオスが目の前で展開されていることに、僕は驚き、感動していた。その衝撃は、本当にここは現代の地球なのかという疑問が湧いてきたほどだった。
 インドがこういう場所「だった」ということは知っていた。インドに来るバックパッカーの多くが読んでいるであろう沢木耕太郎の「深夜特急」には、やはりこうした牛についてや、路上を行き交うリクシャーがもたらす混乱に関する描写があった。僕の中にあったインドのイメージもこうした描写によって作られていた部分が大きい。
 しかし「深夜特急」で沢木さんがインドを旅したのは確か1974年だった。今から約40年前の話なのだから、その頃とは大分変わっているだろうと思っていた。
 同じく「深夜特急」の舞台となった香港がそうだった。僕が初めて香港に行ったのは返還の1年前となる1996年で、以降現地に縁ができて頻繁に訪れるようになったが、同時に「深夜特急」で描かれた香港はもう失われたのだなと感じていた。それは仕方がないことなのだと思う。鎖国でもしていない限り、どの国も大なり小なり時代の空気に取りこまれていく。時代と共にその国の印象が変わるのは当然で、ましてこの情報化の時代に本当の異国に出逢いたいなどという期待は、もはや持つべきではないのかもしれない……そんな風に思うようにもなっていた。
 しかしインドは変わっていなかった。
 もちろんインターネットだってあるところにはあり、現代の影響を受けていないわけでは決してない。しかし根本的なところで、インドは「深夜特急」 の時代から驚くほど変わっていないように思えた。昔を知る人からすればそんなことはないのかもしれないが、少なくとも香港のときに感じたような、本の描写と実際に見る光景のブレというものが小さかったことは確かだった。
 僕にとって一番の感動は、目の前の光景そのものよりというよりも、むしろここまで変わっていないのかという驚きから来るものだったかもしれない。昭和30年代の日本を見てみたいと自分が願っても、それは決してかなわない。過去にはどうしたって戻れないのだから。しかしそれに近いことを、今自分は経験しているような気がした(こう言うとインドのひとは嫌だろうか)。
 香港に行ったときも、その他の国に行ったときも感じることのできなかった、本当の 「異国」に来たのだという感覚に包まれ、僕はインド文化が持つ強さ、あるいはしぶとさとでも言うべきものを肌で感じ、興奮していた。

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 その後もしばらくメインバザールをうろつき、繰り広げられるカオスの様子をなんとかカメラに収めようなどと無駄な努力をしていたが、やがて日も暮れて夜になったので、どこかで夕食を食べることにした。
 旅行初日ということもあり、なんとなく店の中にスイスイと入って行きづらい感じもあったが、やがてバザールの奥のほうに小ぎれいなレストランを見つけたので、意を決してそこに入ってみた。
 パニールバターマサラという名のカレーとナン、それにチャイを頼み、147ルピー、300円ほどだった。例のごとくこれが高いのか安いのかわからなかったが、店の雰囲気から想像するにものすごく安いというわけでもないような気がした。インドのカレーというと激辛のイメージがあったが、旅行者向けにスパイスが調整されているのか特に辛くはなく、味も美味しかった。
 店を出て、小さなスーパーのようなところでインドのスナック菓子やジュースなどを買い、宿に戻った。

 日が落ちたこともあり、部屋の中は寒かった。
 コーヒーが飲みたくなり、フロントにいた無口だが愛想のよさそうな若い兄ちゃんに聞いてみると、20ルピーだと言う。じゃお願いするよと言うと、彼は 「オーケー」と言い、外に向かって駆け出していった。どこかに買いに行ってくれたのかなと、表に出てタバコを吸いながら待っていると、程なくして彼が戻ってきて、大事そうに両手に抱えていた紙コップを僕に手渡した。
 紙コップは通常のサイズよりも小さめで、銀紙でフタがされていた。チップに10ルピー渡すと、彼はニコっと笑顔を浮かべ、「グッド・ナイト」と言いながら僕をハグして去っていった。
 部屋に戻り、コーヒーを飲んだ。砂糖とミルクがたっぷり入っていて、正直甘すぎるくらいだったが、温かい飲み物は嬉しかった。

 

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 コンノート・プレイスに着いたときは本当にこんな街に入っていけるのだろうかと思ったが、少しずつ慣れてきたようにも感じる。メインバザールを歩いているときも多くのインド人が話しかけてきたが、そこまで過剰に警戒することはないのかもしれないと思うようになった。
 当たり前だが、誰もが何かを企んでいるわけではない。
  「マヤク、アルヨ」などと日本語でガンジャやハシシを勧めてくる者もいたが、いかにも下心ありげに声をかけてきた人が、案内だけして何の見返りも求めずに去っていったこともあった。フラリと入った旅行案内所のおやじは、かなりしつこくツアーを勧めてきたが、説得が無理だとわかると友好的になり、最後は握手で別れることができた。また部屋でガイドブックを読み返したところ、ラッキーの友達やアネルが勧めていたツーリストオフィスもちゃんと載っていた。あるいは彼らも本当に純粋な親切心で教えてくれようとしていたのかもしれない。いや、でもあのアプローチの仕方はやはり……
 白黒の感覚が、ここではよくわからなくなってくる気がした。

 部屋のドアは上部が吹き抜けになっており、廊下と筒抜けの状態になっていた。夏場の暑さを考えての構造なのかもしれなかったが、そのためフロントの話し声や外のクラクション音が部屋の中まで直接聞こえてきた。
 寝具は薄汚れた毛布が2枚置いてあるだけなので、寝床に入ってもなかなか体が暖まらなかった。ジャンパーを着こんで毛糸の帽子をかぶって毛布にくるまると、ようやく少し落ち着いた。
 重い感覚は続いていた。それは僕が日本から引きずってきたものであり、今回僕を日本の外に押し出したものでもあった。じっとしているとよりはっきり感じられてくるその重さと、旅に出たのだという興奮がせめぎ合う中、僕は眠り、いくつかの夢を見た。