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<Day 8 ジャイプル >


               1月13日

 目が覚めたとき、バスはどこかのバス停に停車中だった。
 寒さのせいでなかなか寝つけなかったが、それでも2、3時間は眠りに入っていたような気がする。そうすると今は午前3時くらいだろうか? まだ外は暗く、トイレに行こうと思ってバスを降りると、外にいたひとりの男がホテルを紹介すると声をかけてきた。いや俺はトイレに行くだけだからと言おうとし、ふと腕時計を見た。
 「6:30」というその表示を見たとき、嘘だろと思った。すでにジャイプルの到着予定時刻を大幅に過ぎている。そんなに眠った感覚もなかったが、いつの間にか朝になっていたようだ。
 しまった寝過ごしてしまったかと焦り、いったいここはどこなのだろうと声をかけてきた男に訊ねると、なんとここがジャイプルだと言う。念のためバスの運転手にも確認すると、確かにここがジャイプルだと言った。どうやらぎりぎりのタイミングで目を覚ますことができたようだった。1、2時間の遅れは当たり前という、インドの交通機関のルーズさに感謝するしかない。
 急いで荷物を取りバスの外に出ると、ほどなくしてバスは走り去っていった。イスラエルの男が寝ていた下段シートも空になっていたので、寝ている間にプシュカルも通り過ぎていたようだ。

 まだ薄暗い道を、地図を見ながら歩いた。ジャイプルには「パールパレス」というバックパッカーに人気のホテルがあると聞いていたので、そこに行こうと思っていたのだ。
 しかし降りたバス停が地図のどこに相当するのかがわからず、30分くらい歩いても現在地がつかめなかった。らちがあかないと思い、リクシャーをつかまえて連れてってもらうことにした。
 呼び止めた運転手は100ルピーで行くと言ったが、どう考えてもそれは高すぎる気がしたので交渉して50ルピーに値切り、ホテルの前まで運んでもらった。案の定10分もしないうちに着いたので、50ルピーでも大分いい値段だったことになる。この頃にはすっかり夜も明け、あたりは明るくなっていた。
 ジャイサルメールとは違い、ジャイプルはデリーのようなしっかりとした街だった。道はアスファルトで舗装され、比較的モダンな建物が立ち並んでいる。
 パールパレス・ホテルもまた、レヌーカなどと比べると随分立派で小ぎれいな建物だった。
 フロントで部屋はあるかと訊ねると、個室はいっぱいで、地下のドミトリー(大部屋)ならひとつだけベッドが空いていると言われた。
 ドミトリーか、なるべくなら個室に泊まりたいな……と逡巡していると、対応してくれていた男が言った。
「このホテルの屋上にレストランがあるから、そこで時間を潰して10時になるまで待ってみるといい。10時になったらひょっとしたら空きができるかもしれない」
 ならそうするかと僕はホテルの階段を上がり始めた。しかし2階の踊り場まで来たところで、まてよと思った。なにもこのホテルにこだわって泊まることもない、この近くには他にもホテルがあるだろうから、まずはそっちを当たってみることにしよう……そう考え、僕は階段を下りて一旦パールパレスの外に出た。

 周辺にはやはりちらほらとホテルがあり、何軒かは部屋が空いていないといって断られたが、やがて空き部屋のあるホテルが見つかった。ここもなかなか立派なホテルで、値段も600ルピー、約1200円とそれなりの値段がしたが、これ以上探し回るのも面倒だったので部屋を取ることにした。
「明日はこの街で大きなフェスティバルがあるんだ」
 部屋の手続きをしてくれたホテルのオーナーがそう教えてくれた。なんでも「カイト(凧)・フェスティバル」というもので、たくさんの凧を空に飛ばし、道の至る所で焚き火をおこなうのだという。ホテルの部屋があまり空いていなかったのもそれが原因だったのかもしれない。
 案内された部屋は広々としていた。ベッドのほかにテーブルとイスが設置されており、温水のシャワーも使え、まったく申し分のない部屋だった。僕はまずホテルの屋上にあったレストランで軽い朝食を取り、部屋に戻って何日ぶりかになる温水のシャワーを浴びた。ジャイサルメールでラクダに乗ったときからずっと尻の痛みを感じていたのだが、シャワーを浴びた際に調べてみると、やはり皮がむけて腫れていた。これはもう一日乗ったらさらにひどいことになっていただろう。

 ロバートと決めた待ち合わせの時間は午後1時だったので、12時過ぎにホテルを出発して歩いていった。大通りは車で溢れ、朝方と比べてずいぶん交通量が増していた。デリーの騒音が思い出されたが、気温に関してはジャイプルのほうが多少南にあるせいなのか大分暖かいように感じた。
 待ち合わせ場所のカフェにはすぐ着いてしまったので、まだ大分時間があった。
 こういった状況や、どちらかがトラブルで遅れた場合などにそなえ時間を潰しやすいカフェを選んでいたのだったが、問題はそのカフェが潰れていたということだった。看板などはまだ残っているものの、ガラス張りの入口から見える店内はテーブルやイスがすべて運び出されており、ガランとしていた。
 仕方がないので店の前の石段に座ってタバコなどをふかしながら待つことにした。
 待ちながらふと、ロバートは本当に現れるだろうかと思った。かつて、いやほんの少し前まで、待ち合わせとはこういうものだった。携帯電話のない時代ではあらかじめ場所と時間を決め、そこに行く。それだけだった。あとは待つ以外にやれることはなにもない。そんな風に当たり前だったことが、異国にいるという状況と相まって、なんだかとても不確かで、しかし面白いことをしているような気分にさせる。携帯電話があれば、相手とは常にどこかでつながり続ける。何かがあればその場で連絡を取り合えばいい。しかしジャイサルメールで約束したあと、僕とロバートとのコネクションは一回切断された。あとは各々がどこで何をしているかもわからないし、何をしていようとそれに干渉するすべもない。あるのは約束したという事実だけ。相手がそこに来るのを信じる気持ちだけなのだ。
 常につながっているというほうが異常なのだ……
 ひとりでぽつんと座り、ジャイプルの道を行きかう車を眺めながら思いをめぐらせていると、遠くから見覚えのある男が手を振りながら近づいてきた。ロバートだった。
 こうして切れた接続は、再びつながっていくのだった。

 2人で再会を喜び合い(といっても別れてからまる一日も経っていないのだが)、とりあえず近くのマクドナルドに入って話をした。
 ロバートもパールパレスを訪れたようで、彼は地下のドミトリーに部屋を取ったと言った。
 マクドナルドを出ると、そのすぐ近くに比較的大きな映画館があるのが目に入った。
「インド映画を見てみたくないか?」
 そう訊かれて、それは面白いかもなと思った。事前にチケットを予約購入できるようだったので、僕らは映画館の入口の脇にあったチケット売り場に行った。上映されているのは2本で、ひとつは人間ドラマのようなシリアスな雰囲気の作品、もうひとつはおどけた顔をした中年男3人と、1人の美しい女性が写っている、いかにもコメディタッチな感じの作品だった。
「これなら言葉がわからなくても楽しめそうだな」
 そうロバートが言い、僕らはそのコメディタッチの映画の、翌日の夜9時半から始まる回のチケットを購入した。料金は150ルピー、300円ほどだった。
 映画の題名は「Yamla Pagla Deewana」といった。

 その後はジャイプルの街を歩いた。
 ジャイプルは城壁に囲まれた旧市街と、その周りに広がる新市街によって構成されており、旧市街の中にはシティ・パレスと呼ばれる宮殿や、ジャンタル・マンタルと呼ばれる大きな天文台など、歴史的な建造物が比較的残されているようだった。パールパレスや僕の泊まっているホテルは新市街にあり、旧市街と鉄道駅の中間あたりに位置していた。
 僕らは歩いて旧市街まで行き、茶色とピンクの中間のような鮮やかな色で塗られた城壁をくぐって中に入った。あたりは人と車とリクシャーでごったがえしており、ビーッ、ビーッという間断のないクラクション音が、あのデリーのカオスを思い起こさせた。ジャイサルメールでは大分のんびりした雰囲気にひたることができたが、またこのカオスの中に戻って来たのだなと思った。

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 デリーにはまだ行ったことがないというロバートは、このジャイプルのカオス状態に少し驚いたようだった。そしてデリーと同じように僕たちにしきりと接触してくる物乞いや、得体の知れない人間たちに対し、幾分苛立っているようにも見えた。
 ジャイサルメールにも物乞いはたくさんいたが、デリーやジャイプルのような大きな街ではその数はさらに多くなる。数が増えれば接触する頻度も高まり、そうすると中には体をつかんではなさなかったりと、幾分強引なアプローチを取ってくる者も含まれてくる。
「触らないでくれ」
「あっちに行け!」
 そうした物乞いに腕などをつかまれるたびに、ロバートはそう言って払いのけていた。
 彼は基本的に物腰が柔らかく、細かいところにも気を配る優しい男だったが、移動の疲れもあるのかこの日は少し神経質になっているようにも見えた。とはいえ僕自身も邪険な対応はしないようにと思いつつも、すでにジャイサルメールの平穏が恋しくなっていたのだが。
 
 350ルピーの入場料を払ってシティ・パレスを見物し、続いて「風の神殿」と呼ばれる場所に行ってみたが、そっちはすでに開館時間が終了していた。そこからはホテルに戻るというロバートと別れ、ひとりでしばらく街を歩き回った。明日のカイト・フェスティバルに備えてなのだろう、路上には凧を売っている店が多かった。帰りにパールパレスに立ち寄り、空き部屋はできたかと訊いてみたが、また明日の朝にならないとわからないと言われたので、もうここに泊まらなくてもよいかな、という気分になった。

 自分のホテルに戻り、屋上にあるレストランに行き、カレーとライスとチャイという、いつもの組み合わせの夕食を食べた。このホテルにはあまり宿泊客がいないのか、レストランでは僕以外にもうひとり中年の西洋人の男性が食事をしているだけだった。
 タイル張りになっている空間の隅には小さな天幕と赤い絨毯が敷かれており、その前で操り人形を使ったショーのようなものがおこなわれていた。

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 が、なにぶん客が2人しかいないため、そのパフォーマンスにもいまひとつ覇気がない。あやつり人形を動かす演者は僕が日本人だとわかったようで、人形を動かしながら「サクラ、サクラ……」と歌いだしたり、パフォーマンスが終わって挨拶する際に「サヨナラ、サヨナラ」と日本語を混ぜたりした。
 人形のパフォーマンス自体はそれほど面白いものには感じられず、彼のアピールにもあまり反応しないようにしていたのだが、いかんせん客が2人しかいないということもあり、彼がターゲットにできる対象は限られていた。やがて演者は僕のテーブルにやってくると、目の前でパフォーマンスを始めた。さすがに席を立つわけにもいかないので、食事をしながらそのパフォーマンスを眺めていると、案の定終わったあとにチップを要求された。30ルピーを取り出して渡すと、100ルピーくれと言ってきたので、ノーと言って跳ね除けると、その後はこちらに干渉してこなくなった。

 なんとなく寂しさのただようそのレストランで、いつしか僕は別のテーブルで食事をしていた中年男性と話し始めていた。
 彼はフランス人で、名前をミシェルと言った。パールパレスに泊まれなかったことを話すと、このホテルでいいじゃないか、ここは素晴らしいホテルだよと言った。彼はこれまでも何度かインドを訪れているようで、ジャイプルではこのホテルを定宿にしているようだった。
 ミシェルは自分が飲んでいたビールを僕のためにも1本注文してくれ、ビールを飲みながら自分のことについて話し始めた。
「私はね、昔は事業で大成功して、ものすごくお金を持っていた。でもあるとき失敗をしてすべてを失ってしまったんだ。それで今は細々と暮らしながら、こうしてたまに旅行を楽しんでいるのさ。いっときは会社の経営者で、地位もあったし、豊かな暮らしをしていたんだけどね……」
 そして自分に言い聞かせるように、彼は続けた。
「でも仕方がない。それが人生ってものさ」
 ザッツライフ、と言うミシェルはしかし、どこか寂しそうでもあった。
 そのあともしばらく彼と話し続けると、僕はビールの礼を言って部屋に戻った。

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