<Day 13 アーグラ >



              1月18日(アーグラ)

 6時に起きて支度をして、一階に下りた。
 リクシャー運転手のおやじはロビーで待っていた。おはようと挨拶をしてさっそく外に出ると、あたりはまだ暗く、凍えるような寒さを感じた。オートリクシャーは普通の乗用車などと違い両サイドが吹き抜けになっているので、走りながら冷たい空気をダイレクトに感じることになる。僕はニットキャップを部屋に置いてきたことを後悔した。

 リクシャーは暗い道を10分ほど走り、一軒のレストランらしき建物の前で停車した。
タージ・マハルはこのすぐ先だ。私はこの店で待っているから見てくるといい」
 そう言っておやじは一枚のカードを差し出した。「MAYA」と書かれたそのカードはこのレストランのもののようだった。戻ってくるときに場所を忘れないようにとのことなのだろう。僕はありがとうと言ってカードを受け取ると、言われた方向に向かって歩き出した。

 少し行くとチケット売り場があり、そこで僕は750ルピーというインドの物価からすればかなり高額な入場料を払ってチケットを買った。
 空は徐々に明るくなり始めており、すでに多くの人々が入口の前に列を作って並んでいた。
 入口では手荷物のチェックがあった。僕が持っていたのはやや大きめのウェストポーチだけだったが、それをチェックした男は、中に入っているチョコレートとタバコをここに置いていくようにと言った。食べ物やタバコは持ち込みが禁止されているのだと言う。
 僕は一旦列から離れると、チョコレートをその場で食べて消化し、ポーチに入っていたパンフレットを二つに折ってタバコの箱の上にかぶせ、先ほど男がチェックしなかったポケットの中に入れた。
 再度列に並んでチェックを受けると、男は先ほどは見なかったポケットも開け、二つ折りにされているパンフレットを発見した。男がその紙に軽く指で触れる様子を見たときはまずい、と思ったが、男はその裏にあるタバコの存在には気づかなかったらしく、「OK」と言ってポーチを返してきた。

 そこから右手に続く壁に沿うようにしてしばらく歩いた。
 タージ・マハルの姿はまだ見えず、どこにあるのだろうと思っていると、右手に大きな門が現れた。
 そこを抜けた先にタージ・マハルがあった。
 壁の向こう側は庭園になっており、タージ・マハルはその先に朝もやに包まれるようにして建っていた。

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 それは息をのむほど美しい光景だった。
 朝もやに包まれていることでより幻想的な雰囲気が増しているようだった。
 タージ・マハルはこれまでにインドで見たどの建造物よりもデリケートで、精密で、完成されていた。俗な言い方だが、これまでに人類が作り上げた中でも最も「レベルの高い」建造物ではないかとすら思った。

 昇り始めた太陽が、タージ・マハルをオレンジ色に染めていった。この美しさを写真に収めることは不可能だとわかりつつも、僕はカメラを構えて何度もシャッターを切った。

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 タージ・マハルは、ムガル帝国の皇帝が王妃ムムターズ・マハルのために建てた墓なのだという。大理石を組み合わせてこのようなものを作り上げるとは、昔の人はなんとすごいことをするのだろう。
 建物の中にも入ることができ、薄暗い内部に王妃の墓石が置かれていた。これだけ毎日引っ切りなしに人が訪れては、王妃も安らかに眠れないに違いない。その圧倒的な芸術に感嘆しながら、立派過ぎる墓に入るのも大変だなと思った。

 一通り見終わると時刻は午前9時を過ぎていた。ホテルのチェックアウト時間は10時だったので、それまでに一旦ホテルに戻る必要があった。アーグラの滞在は1日か2日で十分と考えていた僕は、延長手続きをせずにホテルを出てきていたからだ。
 おやじの待つレストランに戻ると、彼はここで朝食を食べたらどうだと勧めてきた。時間に余裕がなかったのでコーヒーだけ注文して飲んでいると、小奇麗な恰好をしたスタッフの男が話しかけてきた。彼は日本語が少しだけわかるらしく、しばらく話をした。
 コーヒーを飲み終わり、そのとき近くにいた別のスタッフに勘定を頼むと、店の外に設置されているテーブルのところで払うようにと言われた。勘定は店の前にいるスタッフが行っているらしい。
 その言葉に従って外に出ようとすると、さっき日本語で話しかけてきた男がまたやって来て、外に行くようにと言ったスタッフに何事か話しかけた。そしてその場で自分で伝票を取り出して何やら書きつけると、それを僕に渡した。
 伝票には「40ルピー」と書かれていた。
「10チップ、OK?」
 小声でささやくように男が言った。
「I don't think so(そうはいかないよ)」
 僕がそう答えると、彼は僕の手から伝票を抜き取り、だったら外のテーブルで勘定してくれと言って去っていった。
 
 ツーリスツ・レストハウスに戻ってチェックアウトをし、バックパックをひとまずホテルの荷物置き場に保管してもらった。どこでもというわけではないが、ホテルの中にはこうしてチェックアウト後にも荷物を一時的に預かってくれるところが結構あるようだった。
 僕は今日一日アーグラを観光し、夜の電車でバラナシに向かって移動することに決めた。
 朝食を取っていなかったので、中庭のレストランに行き、バナナ・パンケーキとチャイを頼んだ。昨晩と同じ席に座ったところ、テーブルの上に英字新聞が置かれていた。昨晩もここに置かれていたので、誰かが忘れていったか置いていったきりになっているようだった。

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 朝食を食べながらなんとなく新聞を読み始めると、これがなかなか興味深い。

"インドの人口の約70パーセントは読み書きができず、満足な食糧を得ていない。"
"我々はこの国をもっと清潔にし、洗練させるべく努力しなくてはならない。"
"我々は世界七不思議のひとつタージ・マハルのあるアーグラをとことん破壊してしまった。"
"インド人はシンガポールの路上ではつばを吐かないのに、自分の国では平気でそれをする。"
"世界に認められる国になるために、我々はもっと旅行者の視点で自国を見る必要がある。"

 インドの記者たちは、自国をよりよくするために自覚的にいろいろと考えているようだった。
 ただ皮肉なのは、このインドのある種の"ワイルドさ"こそが、僕たち旅行者を引きつけてやまない理由であることだった。もちろんそれは外から来た者の勝手な願いではあったが。
 あまりに新聞が面白いので、僕は少し考えたのちに拝借していくことにした。昨日から置きっぱなしになっていたことだし、まあ問題はないだろうと思えた。とはいえタージ・マハルのタバコの件といい、インドに来て以来自分がこうしたことにいささか図太くなっているように感じなくもなかった。

 食事を終えると、フロントに行って列車のチケットについて訊いてみた。
 今晩アーグラを発ってバラナシに向かうチケットを買いたいのだがと言うと、フロントにいた男性はパソコンのディスプレイをしばし眺め、こちらで見る限り空席は見当たらないが、直接駅に行けばチケットが手に入るかもしれないと言った。
 僕はホテルの外で待っているおやじのところに戻り、最寄りの鉄道の駅であるアーグラ・フォート駅まで連れていってもらった。
 
 駅に着くと、入口近くにあるブースのようなところで用紙に記入をし、バラナシ行きの2A(AC付き2段ベッド車両)または3A(AC付き3段ベッド車両)のチケットの購入申し込みをした。
 しかしチケットはやはりすべて売り切れているとのことで、ウェイティングリストに登録して待つしかないと言われた。
 ウェイティングリストというのはいわゆるキャンセル待ちのことで、料金を先払いしてここに登録しておけば、チケットが浮いた際にまわしてもらうことができる。ただしウェイティングリストに登録しているのは通常ひとりではないので、早く登録した者から順番にチケットがまわされることとなる。
 スタッフの話によると、今なら2Aの「WL5」、つまりウェイティングリストの5番目に登録することができ、それが一番見込みがあるとのことだった。見込みがあるとは言っても、自分のところにまわってくるには5人がキャンセルをする必要があるわけで、あまり大きな期待はできないような気がした。
 種類としてはこれ以外にスリーパー、略してSL(ACなしの3段ベッド車両)と呼ばれる最安値のシートもあるのだが、ACがないと夜間は寒すぎて寝袋などがないと耐えられないと聞いていた。それでも取れないよりはと、SLのチケットの有無も聞いてみたが、こちらもすでに一杯で、ウェイティングリストもかなり埋まっているとのことだった。
 これは今晩アーグラを発つのは無理かもしれないな、と思いつつ、ひとまず列車の代金である920ルピーを払って2Aのウェイティングリストに登録をしてもらった。

f:id:ryisnow:20160114173257j:plain(アーグラ・フォート駅の前)

 リクシャーに戻って状況を知らせると、それなら旅行会社に行ってみようとおやじは言った。
「旅行会社は独自に何枚かチケットを抑えている。空きが見つかるかもしれんよ」
 なるほどそういう可能性もあるのかと、さっそく連れていってもらうことにした。
 
 おやじはしばしリクシャーを運転し、一軒の小さな旅行会社の前で車を止めた。中に入っていくと40代くらいの男がひとりだけおり、愛想のよい笑顔を浮かべて応対してきた。
 バラナシ行きのチケットを探していると言うと、男はパソコンをチェックし、どの席種もすべて満席だと言った。
 やはりそうかと思っていると、男がこんなことを言った。
「ただしここから車に乗って次の駅まで行くなら、3Aのチケットを手配することができる」
 アーグラからは乗れないが、次の駅からなら乗れる。つまり誰かが次の駅で降りるということだろうか。いずれにせよ乗れるのであればと思い、値段を訊いてみた。
「2700ルピーだ」
 と男は言った。高すぎる。日本円にして6000円近い額だ。僕は思わず声を出して笑ってしまった。その男いわく3Aのチケット代金が1200ルピーで、次の駅までの車代が1500ルピーなのだという。
 駅で払った2Aの料金は920ルピーだった。3Aは2Aよりも安いシートだから、通常ならば700ルピーかそこらだろう。それになんと言っても車の料金が髙すぎる。デリーの空港から1時間タクシーに乗っても320ルピーに過ぎなかったというのに。コミッションを取ると言っても、バラナシまで行くだけで2700ルピーはさすがに取りすぎだろうと思った。
「No way(ありえない)」
 と言ってはねつけると、これは「エマージェンシー・チケット」だから高いのだと男は説明したが、正直その言い分を信じる気にはなれなかった。
 だったらいいよといって断ろうとすると、男は突如言語を日本語に切り替えた。
「この店はね、日本人にとても有名ですよ」
 そうして彼は壁を指さした。そこには「地球の歩き方」に掲載されたこの店の記事の切り抜きや、「ラージさん」という名らしい彼のサービスを褒めたたえる日本人旅行者のメッセージなどが貼られていた。
 そのメッセージによると、このラージさんは「とても親切」で「料金提示もフェア」とのことだった。そいつはどうかね、と思いつつ、僕は彼にちょっと考えさせてくれと告げて店を出た。

 今晩の内にバラナシに向かえる確率が大分低くなったことを感じた僕は、リクシャーに戻っておやじに告げた。
「もう一回駅まで行ってもらえるかな? カジュラホまでのチケットがあるかどうか調べてみる」
 こうなればバラナシはやめて、その手前にあるカジュラホまで行くのもよいかと思ったのだ。するとおやじはこんなことを言う。
「だったら今度はインド人が使う旅行会社に連れてってやる。そこだったらもっと安いチケットがあるかもしれん」
 もちろん異存はあるはずがなかった。というより最初からそこに連れていってくれよと思った。

 そうして連れて行かれた店に入り、チケットの有無を訊くと、SL(ACなしの3段ベッド車両)でよければバラナシ行きが620ルピーで手に入ると言う。
 ACなしにしては高い気がしたが、これまでに得た選択肢の中ではこれが最善だろうと思い、購入することにした。
 チケットを用意するのに1時間ほどかかるということだったので、その間に再び駅に戻り、ウェイティングリストの登録を解除して料金を払い戻してもらった。キャンセル料が20ルピーかかったが、これでどうにか今晩バラナシに向かって発つことはできそうだった。

 チケットの目途がようやく着いたので、僕は中断していたアーグラの観光を続けることにした。

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 リクシャーは駅のすぐ横を流れている河を渡り、落ち着いた雰囲気の住宅街を抜けていった。路上では地元の子供たちが遊んでいる姿が見えた。

 やがておやじは一軒のカフェの前で車を止めた。
 カフェ、といっても竹や木のようなもので組んだ骨組みに布をかぶせたような簡易的な作りで、台風でも来れば吹き飛んでしまいそうだった。外と隔てる壁はなく、店内の床も外と地続きになっていた。
 自然光のみによって照らされた店内には、椅子がふたつばかりと、なぜかベッドがひとつ置かれていた。そしておやじは店に入るなりそのベッドによっこらしょっとと寝そべった。
「タバコを一本くれないか?」
 そう言っておやじは僕からタバコを受け取ると、寝そべりながら一服し始めた。

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「この先に歩いていくと、タージ・マハルを反対側から見ることができる。私はここで待っているから行ってくるといい」
 そうか、ならちょっと行ってくるかと思うと、さらにおやじが言った。
「牛と魚と鶏と羊、どれが好きだ?」
「え?」
「あとで私の家で食事をごちそうしてやる」
 だからこのあと食材の買い出しに行こうと言うのだ。興味深い提案だったが、どうしたものかと思った。
 僕はとりあえず答えを保留にすると、ベッドで完全にリラックス状態のおやじを置いてカフェの外に出た。
 
 外に出た途端、ひとりのインド人の青年が声をかけてきた。
 ガイドをするというので、いや大丈夫だよと言って歩き始めると、その青年も横に並んでついてきた。その後もいろいろと話をしてきたが、特に押しつけがましい感じではなかったので、相手をしながら一緒に歩いていった。
 数百メートルくらい歩くと、目の前に広い砂州と河が現れた。そして河の向こうにタージ・マハルが背中を向ける形で立っていた。

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 なるほど、多少距離は離れているし向きは反対だが、ここからは入場料を払わずにタージ・マハルを見ることができるというわけだった。河と砂州の幅は300メートルくらいはあるだろうか。空間が開けていて解放感があったが、観光場所としてはそこまで人気ではないのか、観光客の姿はまばらだった。
 一緒に歩いてきた青年はタージ・マハルの歴史をいろいろと解説してくれた。それはなかなか聞き応えのある内容で、観光客相手にてきとうなことを言って金を稼ごうという類ではなく、彼はしっかりと勉強をしたのだなと感じさせるものだった。一通り説明をし終わると、タージ・マハルのポストカードを見せて買わないかと言ってきたが、正直どれもデザイン的に惹かれなかったので断った。
 ぼんやりと対岸を眺めていると、右手のほうから煙が上がっていることに気がついた。見ると向こう岸に石造りの建物らしきものが建っており、煙はその中からもうもうと立ち昇っていた。
「あれは死体を焼いているんだ」
 そう青年が教えてくれた。

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 その後また2人でカフェまで歩いて戻り、ガイドしてくれたお礼として30ルピーを渡した。彼は18歳だった。

 結局僕はおやじの食事の招待を受けることにした。
 再びリクシャーに乗って町に戻ると、おやじは一軒の酒屋の前で車を停めた。
「魚の代金が150ルピーで、ウィスキーの代金も150ルピーだ。というわけで合計300ルピーくれ」
 とおやじは言った。
 どうやら食材の代金は僕が出すらしい。それは半ば予想していたので別に構わなかった。ただおやじの発言にはそれ以外にいろいろと突っ込みどころが満載だった。

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 まず僕が酒を飲みたいと言ったわけでもないのに、ウィスキーが買い出し項目に入っているということ。そしてインド人は酒を飲まない人が多いが、このおやじは飲む人なのだなということ。そして食事の後もあんたは運転するじゃないか、ということ。そして何が好きだと訊いてきたわりには知らない間に魚に決まっていたこと。そしてなにより合計で300ルピーは高いだろうということ。普通のレストランでしっかり食事したって大体100~150ルピーくらいなのだ。これはもはやごちそうしてくれるというよりは、ごちそうさせてもらうといった感じだろう。
 このタヌキおやじめと思いつつ、おやじのそういう態度が面白かった。
「ウィスキーに150ルピーは高すぎだよ。それに魚に150ルピーなんてもっと高い。日本でも魚はそんなに高くないよ」
 150ルピーは約300円なので、日本でも魚によってはそれ以上するが、とりあえずそう言っておいた。
「合計で200ルピー。これ以上は出せない。これで無理ならレストランで食べるからいい」
 するとおやじは、
「わかった。ウィスキーは小瓶もあるから、それを買えば200ルピーで大丈夫だ」
 と言った。そして酒屋に行ってウィスキーを買い、それから少し離れた場所にある商店に入っていくと、野菜と羊肉を買って戻ってきた。あれ魚を買うんじゃ……と思ったが、そこはもう突っ込まなかった。
 
 その後、郊外にあるおやじの家に行った。
 家はいわゆる貧しい住宅街といった場所の一画にあった。周辺には多くのごみが散乱しており、目の前の細い通りでは子供たちが集まって遊んでいた。
 家の中もまた、裕福な暮らしからは程遠い生活を想像させた。
 入ってすぐのところにベッドが置かれた6畳ほどの部屋がひとつ。その奥がキッチンになっている4、5畳ほどのスペース。さらにその奥にベッドとテーブルが置かれた6畳ほどの部屋がひとつ。それがすべてだった。

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 僕とおやじが家の中に入っていくと、おやじは奥さんらしきひとに野菜と羊肉を渡し、僕を奥の部屋へといざなった。おやじはベッドに腰かけ、僕が椅子に座ると、おやじはさっそく買ってきたウィスキーを開けて飲もうとした。
「今は飲まないでくれ。あんたにはこの後も運転してもらわなきゃならないんだから」
「いや、大丈夫だ、問題ない
 ノープロブレムじゃないだろう、と思いつつさらに制止すると、
「大丈夫だ。私は毎日飲んで運転しているのだから」
 とおやじは言った。その言葉にはそれなりの説得力があったが、僕にはそのウィスキーを買ったのは自分だというアドバンテージがあった。結果的におやじも妥協し、「2口くらいなめるだけ」ということで手を打った。

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 料理ができるまでにはまだ少し時間がかかるようだった。
 タバコが切れていたので、ちょっと買ってくると言うと、それならついでにペットボトルの水も買ってくるようにと言われた。
「私らは大丈夫だが、君はこの家の水は飲まないほうがいい」
 確かにインドでは水だけは気をつけたほうがよいと言われていた。おやじはおやじなりに気を使ってくれているようだった。
 おやじは隣の部屋に向かって何やら声をかけ、十代半ばくらいに見えるひとりの少年を呼び入れた。どうやらおやじの息子らしく、店まで案内してくれるという。僕はその息子と一緒に家の外に出た。

 歩き出すと、その息子が言った。
「友達がやっているいい店があるから、そこに行こう」
 一番近い売店は家から50メートルほどのところにあったが、彼はここじゃないと言ってさらに100メートルくらい歩いた先にある店に僕を連れていった。
 店にいる彼の友人らしき男に水を買いたいと言うと、「30ルピーだ」という答えが返って来た。
「30ルピー? そりゃないよ。普通なら10か12ルピーくらいだろう」
 そう言うと、その店員はこれは「グッド・ウォーター」だから特別なのだと言う。見せてくれと言ってボトルをチェックすると、ラベルには「13ルピー」と印刷されていた。
「その印刷は間違ってるんだ」
 おやじの息子が横からおずおずと言った。
 僕はそんなことはないだろうと言い、来る途中に見たもうひとつの店に向かって歩いていった。そこで水の値段を訊くと、「10ルピーだ」との答えが返って来た。
 僕がそこで水を買っていると、追いついてきた息子がチョコレートを買ってくれないかと言った。僕は5ルピーを払ってチョコレートを買い、彼にあげた。
 彼はありがとうと言い、包みを開けて二つに割り、半分を僕に渡した。

 チョコレートを食べながら家に戻った。
 料理はまだ出来上がらないようで、おやじは「私は少し寝る」と言い、ベッドに横になって眠ってしまった。朝も早かったし疲れがたまっているようだった。僕はその横で息子としばらく話をした。
 彼は現在高校生らしく、科学と数学と英語が苦手なんだと言った。コンピューターも学校で習っているらしく、その勉強は楽しいようだった。
「ジャパン・ダラーを見せてくれない?」
 と言うので、千円札を取り出して見せてあげた。
「これを僕にくれない?」
 勉強のために使うから、と彼は言ったが、それはできないと言って断った。彼の言葉が本当だったとしても、隣で寝ているおやじが今日一日リクシャーを運転して稼ぐ以上の金額をその息子にほいっと渡してしまうことには抵抗があった。
 彼はそこまで千円に執着することはなく、話題を変えた。
「僕は半年前までは英語が全然話せなかったんだ」
「でもお父さんがこうして外国の人を家に連れてくるようになってから、随分英語が上達した」
 どうやらおやじはこういうことをよくやっているらしかった。自分がここにいることが彼にとって何かの経験になっているのであれば、それは嬉しいことだなと思った。
「僕は自分で奥さんを選べないんだ。結婚する人はお父さんが決めるから」
 彼の話は続いた。

 やがてトイレに行きたくなったので、どこにあるのかなと訊くと、彼はこっちだよと言って家の外に僕を連れ出した。彼がここで、と指さしたのはおやじの家と隣家の壁の間の1メートルほどの狭いスペースだった。家と壁に挟まれて多少死角になっているが、それはつまり単なる外だった。男が小をする分には問題ないかもしれないが、女性や大の際はどうするのだろうと思った。あるいは家族にはそれ用の場所があるのかもとも思ったが、家の中にそれらしきものは見当たらなかった。僕は本当にここでいいのかなと思いつつ、外で遊んでいる子供たちに背を向ける形で用を足した。

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(おやじの家の前)

 家の中に戻ると食事の準備ができていた。
 おやじもすでに起きており、見ると小瓶に入ったウィスキーがさっきよりも数センチほど減っている。「飲んだね」と言うと、おやじは聞こえないふりをした。
 テーブルには奥さんが作ってくれたマトンカレーとチャパティ、そしてライスが並べられ、おやじと2人でそれをいただいた。カレーはなかなか辛く、汗が噴き出したが、肉はしっかり煮込んであって柔らかく、とても美味しかった。

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 食事が終わるとおやじは僕に携帯電話の番号を教え、またアーグラに来ることがあったら電話してくれと言った。

 その後再びおやじの運転するリクシャーに乗って町に戻った。
 旅行会社に行ってチケットを受け取り、毛布を買うためにいくつかの店に寄ってもらった。ACなしの列車に乗るために何か防寒になるものが必要だろうと思ったからだ。
 しかしおやじが連れていってくれた店はどこも小奇麗で高級そうな店で、店員が勧めてくる品物の値段を訊くと900ルピーだという返事が返ってきたりする。あわよくば使い捨てできるくらいのものでいいと思っていたので、とてもではないが買う気にはなれなかった。
 予算はいくらくらいで考えているのだと訊かれたので、「150ルピーくらいかな」と答えると、店員は論外だとばかりに「Sorry」と言って去って行った。

 毛布を買えないまま僕は一旦ツーリスツ・レストハウスに戻り、預けていた荷物を受け取った。なんとなく不安があったので、旅行会社で受け取ったチケットをフロントの男性に見せると、彼はしばらくそれを眺め、「これは正規のチケットだ」と言った。
 さらにACなしの車両だが毛布などがなければ寒いだろうかと訊いた。彼は僕の来ているジャケットを指で軽くつまんで厚さを確かめると、ちょっときついかもねと言った。
「毛布を買うとしたらいくらくらいで手に入るかな?」
 と訊くと、駅の近くのマーケットなら300くらいで手に入るのではないかと言った。

 列車の出発時刻は午後8時43分だった。
 大分時間も迫ってきたので、僕らは駅に向かうことにした。そして駅が近づいてきたあたりで、僕は右手にある古道具屋のような店の店頭に薄汚れた毛布のようなものが山積みになっているのを発見した。
「ストップ! ちょっと止めて!」
 そう言って車を止めてもらい、店に行って毛布について訊ねた。
「あれはアーミーが使ってたものを大量に買い上げたんだよ」
 と店員は言った。値段を訊くと「150ルピー」だと言う。まさに自分が希望していた値段だった。
 やったぜと喜んで毛布を抱えてリクシャーに戻ると、おやじがそいつはいくらだと訊いてきた。僕がいささか得意げに「150ルピーだったよ」と答えると、
「安いのは中古だからだ。新品は高いんだよ」
 とおやじは言った。いや汚いやつでいいんだと伝えていたではないかと思ったが、とにかくこれで凍えずにバラナシまで行けると僕は満足だった。

 その後薬局に寄ってのどの薬などを買い、駅に行った。
 リクシャーを降りた僕はおやじにいろいろありがとうと礼を言い、600ルピーを渡した。昨晩おやじが提示した料金は450ルピーだったが、いろいろしてもらったので150ルピーをチップとして上乗せしたのだ。
 結構感謝されるかなと勝手な期待をしたが、おやじはそれほど喜んだ感じもなく、ただ「サンキュー」と言って金を受け取ると、挨拶もそこそこに駅前の人混みの中に消えていった。昨日僕を駅で迎えたように、また新しくアーグラに到着する旅行者を探しにいったのだろう。たったの一日足らずで特別な絆が作れたとは思っていなかったが、やはりこれはおやじの仕事だったのだなとあらためて実感した。もちろんおやじは明日も旅行者を乗せて走って金を稼がなくてはならないわけで、それに対して僕が不満を言えるはずもなかった。

 出発の時間が近づいていたので駅の中に入ると、ひとりの日本人男性に声をかけられた。
 どこに向かうのですか、と訊かれたのでバラナシだと答えると、自分もそうで、2Aのウェイティングリストに登録したのだが、その結果をどこで確認したらよいかわからないのだと言った。彼は英語があまり得意でないようだった。
 僕は彼を駅の中にあるオフィスに連れていき、彼のウェイティング状態の照会をしてもらった。しかし彼の番号はいまだ「WL5」、つまり5番目だったので、まだ空きはないとのことだった。だとすればとにかくぎりぎりまで待つしかない。僕らは近くの椅子に腰かけて待つことにした。
「コジマと言います」
 待っている間に彼はそう言って自己紹介をした。年は僕のひとつ下だった。

 やがて8時半になった。列車の出発時刻まであと13分だった。
 僕らは再度オフィスに行き、コジマ君のウェイティング状態を訊ねた。するとスタッフはそいつはまだ空かないが、SLなら空きができたと言った。ならばそれをくれと言うと、まず駅の外のチケット売り場で2Aのウェイティングリストをキャンセルし、それから購入手続きをしてくれと言う。
 列車は到着が遅れているようで、9時に出発するという表示が電光掲示板に出ていた。とはいえこの時点で時間は8時50分を過ぎようとしていた。僕らは急いで人混みをかきわけ、外にあるブースに走って行った。ブースの前には列ができていたが、僕は列の一番前に行き、カウンターの向こうのスタッフに向かって叫んだ。
「申し訳ないけど彼の手続きを先にやってあげてくれないか? 緊急なんだ。彼の列車はあと7分で出発してしまうんだ!」
 つまりそれは「僕の列車」でもあったので、僕も焦っていた。僕もまたそれなりに苦労して手に入れたチケットだったので、無駄にしたくなかった。
 スタッフはすぐに了解し、2Aに払った代金の払い戻しを行い、新しいチケットをコジマ君に渡した。
 僕らは急いで引き返し、プラットホームに駆け下りた。
 電車はまだ来ていなかった。
 間に合った…… と思い、そこでコジマ君が受け取ったチケットを見せてもらった。
 ところがそれはチケットではなかったのだ。紙に書かれた文字を読むと、それは単に2Aをキャンセルしましたという用紙にすぎなかった。
 まずいッと思い、再度階段を駆け上り、オフィスに入ってさっきと同じ男にキャンセルの用紙を見せ、SLのチケットをくれと迫った。すると今度は「ジェネラル・チケット」というものを買えと言う。なんだかよくわからないが、それがSLチケットの代わりになるらしい。どこで買えるのだと言うと、外のブースだと言う。
 マジかと思い、もう一度外に向かって走った。もうこのときには列車には乗れないかもしれないなと思い始めていた。
 ブースに行き、「彼はSLのチケットがほしいのだが、駅のオフィスでジェネラル・チケットを買えと言われた」と言うと、スタッフは了解し、また別の紙を発行して渡してくれた。
 紙を受け取ってオフィスに駆け込み、
「こいつがあんたの言ってたチケットか!?」
 と叫ぶと、彼は「イエス、これで大丈夫だ」と答えた。
 すぐにオフィスを出てホームに駆け下りた。列車はすでに到着していたが、僕らはそれが動き出す前になんとか滑り込んだ。

 ようやくホッと一息つくと、まったくなんという慌ただしい出発だろうかと可笑しくなった。それと同時におそらくオフィスの男は最初からジェネラル・チケットを買えと言っていて、それを自分が聞き逃してしまったのだろうなと思った。おかげで無駄な往復をしてしまい、オフィスの男を問い詰めるような言い方をしてしまったことを少し後悔した。

 コジマ君とは車両が違っていたので、僕らは別れてそれぞれのシートに向かった。
 シートに着くとなぜか僕の寝台で女性と子供が寝ていた。そこは僕のシートだと思うのだがと言うと、女性はすぐに了解して子供と一緒に去って行った。
 その後例のごとく食事はいるかと訊きにきた男がいたので、僕は他の乗客と共にカレーとライスとチャパティのついた食事を購入して夕食とした。
 インド人たちは食事が終わると、おもむろに列車の窓を開け、そこから紙皿をぽいぽいっと投げ捨てた。その様子は見事なまでに自然だった。僕はうーんなるほどと思いつつ、同じように窓から食べ終わった皿をぽいぽいっと投げ捨てた。

 ACのない寝台は夜になると相当に冷え込んだ。購入したばかりのアーミー毛布をかけて横になったが、それでも寒くてなかなか寝付くことができなかった。
 列車は明日の朝にはバラナシに到着するはずだった。





 

<Day 12 プシュカル >



             1月17日(プシュカル~)

 8時に起床し、テラスに出た。
 ひんやりとした朝の空気を味わいながらタバコをふかしていると、宿の前の通りを一頭の牛がのんびりと歩いているのが見えた。

 朝食を取るため、もはや行きつけとなりつつある湖畔の屋上レストランに歩いていく途中、ロバートがこんなことを言った。
「インドに来てからカーストの存在を感じたことはあるか?」
 あっただろうか…… 僕はインドに来て以来目にしてきた光景を思い返した。
「いや、ないな」
 少し考えて僕は言った。
「そうか、俺もない」
 正確に言えば「気づかなかった」ということなのだと思う。インドに来て以来、数えきれないほどの物乞いや貧困を目の当たりにしてきたが、インド人の間に存在するというカーストの存在をこれまで意識したことはなかった。それは旅行者である僕らが接触するのが、ごく限られた範囲の人間であったことも関係していたかもしれない。
 表向きにはインド社会からカーストは撤廃されたと言われている。しかしそうしたものがそんな簡単に消えることはないように思えたし、町に溢れる貧しい者たちの姿とそれは無縁ではないのだろう。しかしそういう深読み抜きにこれはカーストだ、とはっきりと認識するような場面には幸か不幸かこれまで遭遇したことはなかった。

 レストランに着くと、そこにはすでにフォンがいた。
 僕はチーズトーストとコーヒーを注文し、それからハニー・パンケーキを食べた。

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 今日は霧が湖と町をうっすらと覆っており、昨日とはまた違う雰囲気を醸し出していた。今朝もまた沐浴を行う人々を眼下に眺めながら、しばしカースト制についての話を3人で続けた。

 10時前にレストランを出ると、町を少し散歩するというフォンと握手をし、別れの挨拶をした。僕は今日の昼12時35分発の列車でアーグラに向かうため、もう会うことはないだろうと思ったのだ。
 ところがホテルに戻ってチェックアウトをしようとしていると、そこにフォンが姿を現した。どうやら散歩を早く切り上げて戻ってきたらしい。
 今日はフロントにオーナーの奥さんがおり、僕は彼女に頼んで清算をしてもらった。2日間の宿泊代とレストラン代、それにアーグラまでの車と列車の代金を含めて全部で1980ルピー、約4000円となった。

 すべての清算が終わると、僕は彼女に電話を貸してもらえないかと頼んだ。そして差し出された受話器を取ると、デリーにあるシンガポール航空のオフィスに電話をかけた。
 電話口に出てきた女性にチケットの延長をしたいことを告げると、帰国便をいつにするかと訊いてきたので、1月31日にコルカタを発つ便でお願いしたいのだがと言った。チケットは最長で2月3日まで延ばすことができたが、なんとなく1月一杯インドに滞在するとしたほうが区切りがよいように思えたのだ。
「わかりました。ではEメールアドレスを教えてもらえますか?」
 女性が言った。なんでも新しく作成したItinerary(旅行日程表)をメールで送るとのことだった。それを空港のカウンターで見せればそれで大丈夫だという。
 なるほどそれは簡単でいいと、メールアドレスのアルファベットを「l、a、t……」と順番に言い始めると、
「"l" for lemon?」
 と女性が聞き返してくる。
「Lemon? What?」
 レモンがいったいどうしたのだと意味がわからず聞き返すと、
「"l" for lemon? "a" for alpha?」
 とさらに女性が聞いてくる。益々わからなくなった僕は一瞬隣にいるロバートに電話を代わってもらおうかとも思ったが、やがて彼女がメールアドレスのアルファベットを確認するために、それを冒頭に使った英単語を例として出しているのだということに気がついた。「"l"というのは"lemon"の最初に使われている"l"ですね?」と聞いていたというわけだ。
「Oh yes! "l" for lemon!」
 そうして肯定していくと、女性はすぐに了解し、これでプランの変更は完了しましたと言って電話を切った。あとはいずれ送られてくるであろうItineraryをどこかでプリントアウトする必要があるが、プリンターを貸してくれるところくらいどこかにあるだろうと思えた。
 とにかくこれで正式に日程は延長された。当初の日数に10日がプラスされ、デリーに行く必要もなくなった。
「延長できたよ」
 とロバートに言うと、彼はおめでとうと言って笑みを浮かべた。

 僕に続いてロバートもチェックアウトを行い、その時点で時計を見ると11時前だった。列車の出るアジメールまではホテルが手配した車で送ってもらうことになっており、その車は11時半に到着するということだった。アジメールには30分ほどで着くらしいので、列車が出る12時35分には十分間に合うだろうと思えた。

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 僕とロバートはホテルの屋上に上がり、お互いの今後のルートについて話をした。
 僕はここからアーグラに行き、そこからバラナシ(バナーラス)に行き、続いてブッダガヤに行き、最後にコルカタに行くつもりだった。ロバートはここからデリーに行き、しばらく滞在したのちにひょっとしたらアーグラに行き、そこから東、つまりバラナシ方面に向かうとのことだった。僕はアーグラに長くいるつもりはなかったのでおそらくそこでは会えないだろうが、タイミングが合えばまたバラナシで合流できるかもしれないなと思った。

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 そんな話をしているとフォンが上がってきて、彼女もまた今晩ここを発ってビカネールに向かうと言った。ビカネールはプシュカルの北西に位置する町だった。これで僕たちは3人とも今日プシュカルを離れることとなった。
 今晩はプシュカルで民族音楽のコンサートのようなものが行われるようで、フォントロバートはそれを見てから発つということだった。
 やがて11時半になったので、僕は2人と別れの挨拶をした。2人ともいつか自分たちの国に遊びに来るようにと言ってくれ、僕もまた日本に来ることがあったら是非連絡してくれと言った。

 ホテルの外に出ようとすると、オーナーに呼び止められた。
「頼みがあるんだ」
 なにかと訊ねると、日本のガイドブックにこのホワイトハウスに泊まった感想を投稿してくれないかと言う。
「以前はこのホテルも紹介されていたのだが、今年度版には載らなかった。それで日本人の観光客が来なくなってしまったんだ」
 おそらく「地球の歩き方」のことを言っているのだろうと思った。地球の歩き方は各国のホテル経営者の中でかなりの知名度を誇っているらしく、以前にも香港でこのように宿の主から投稿を頼まれたことがあった。実際日本人旅行者の半分以上はこの黄色い本を持っているのではないかという気がしたし、ここに掲載されるのとされないのでは客足に大きな差が出ることは想像できた。
 僕はオーナーに投稿をすることを約束し、外に止まっていた車に乗り込んだ。

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 車はプシュカルの町を離れ、しばし走った後にアジメールと思われる町の中に入った。ところが町に入ったとたん道路が大渋滞し、車がまったく進まなくなってしまった。
 時計を見ると12時10分で、列車の出発時刻まであと25分だった。運転手に駅までの距離を訊くと、通常なら5分で着く距離だと言う。乗車手続きなどを考えると、できれば15分か20分前には着いていたかった。一瞬ここで降りて歩こうかとも思ったが、まあなるようになるだろうと、成り行きにまかせることにした。
 そんなことを考えているとどうにか車は動き出し、結局12時20分頃に駅に到着した。小さな駅のせいか、ここでは荷物チェックがなかった。デリーの時のようにチェックのために並んで時間を食うことを懸念していたのだが、それは杞憂に終わり、思いのほか簡単に駅の中に入ることができた。プラットホームが4つあったので近くにいた何人かに訊ねると、どうやらアーグラ行きの列車は3番ホームから出るらしい。僕は幾分急ぎ足でホームに降りると、すでに到着していた列車に乗り込んだ。

 デリーからジャイサルメールに行った時と同じように、列車は通路の右側が3人掛けのシートになっていた。その頭上に梯子を使って上る上段シート(Upper Birth)があり、さらに下段の背もたれを使ってその中間にシートを作ることで、最終的には3段ベッドにできるようになっているのも同じだった。
 チケットを見ながら自分のシートにたどり着くと、そこにはすでに2人のインド人の乗客が座っていた。念のためこの列車はアーグラに行くかと訊ねると、彼らは英語がわからないらしく現地の言葉で返答してきた。
「アーグラ、トレイン」
 と繰り返し、自分のチケットを見せると、ようやくわかったらしくひとりがイエス、と言った。

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 列車内はあまり乗客がおらず、ガランとしていた。さらにどういうわけか何人かの物乞いとストリートミュージシャンらしき男が乗っており、少ない乗客の間をまわって施しを求めていた。どうやって彼らはチケットを買ったのだろうと不思議に思った。
 食事はいるかと聞きに来た男がいたので、いると答えるとチキンの入ったカレーとライスを届けてくれた。料金は60ルピーだった。インドの長距離列車では、こうして食事を提供してくれることが一般的のようだった。

 食事を終え、車窓から流れる景色を眺めた。
 なぜ自分はあんなにも旅に出ることをためらっていたのだろう、と思う。駅前の旅行代理店でチケットの手配をしてもらいながら、なぜ自分はあのように葛藤していたのか、今となっては信じられなかった。なぜ家にいたほうがいいと思ってしまったのか。なぜこのような瞬間を感じれる機会を否定しようとしていたのか……
 旅は自分に動くことを強いる。そして動いたことでさらなる力が生まれる。こうしていざ動きの中に身を投じていると、日本にいたときの自分がどれだけ保守的だったか、それがあらためて実感された。

 午後7時頃、ドアの近くにいた男にアーグラまでどれくらいかと訊くと、そばにいたもうひとりの男が次の駅だと教えてくれた。あと30分くらいで着くという。
 結局列車は午後8時過ぎにアーグラに到着した。インドの列車は駅名のアナウンスが一切なく、プラットホームにも日本のようにわかりやすく駅名が書いていなかったりするので、注意していないとそこがどこの駅なのかまったくわからなく気が抜けなかった。
 
 人々で混み合うプラットホームを抜けて駅の外に出ると、オレンジ色の街灯で照らされた駅前は、人やリクシャーでにぎわっていた。
 さてどうするかと思っていると、ひとりのリクシャー運転手が声をかけてきた。でっぷりと太った中年の男で、上下ともに真っ白な服を着ている。話し方はややぶっきらぼうだが、なんとなく信頼できそうな人物に見えたので、僕は彼にツーリスツ・レストハウスに連れて行ってくれと頼んだ。ジャイプルのホテルで会ったミシェルが、アーグラではツーリスツ・レストハウスというホテルがいいと言っていたので、ひとまずそこに行ってみようと思ったのだ。
 運転手のおやじは了解し、リクシャーはアーグラの町を走り出した。暗くて周辺の様子はよくわからなかったが、デリーやジャイプルに比べるとやや車両や人の数が少ないような気もする。
 運転しながらおやじは僕の滞在計画を訊ねた。タージ・マハルを見に行く以外は特に決めていないと言うと、よければ明日一日アーグラを案内してやるぞと言ってきた。
「それとタージ・マハルを見るなら、一番いい時間帯は朝だ。朝なら観光客もまだ少ないし、朝陽に染まるタージ・マハルはとても美しい」
 そうおやじは言った。それはなんとなく説得力のある言葉だったので、だったら朝に行ってみるかなという気になった。

 ツーリスツ・レストハウスには10分もしないうちに着いた。
 空き部屋がない場合を考え、おやじにちょっと待っていてくれと言うと、ホテルの中に入った。
 中はかなり小奇麗な感じで、安宿というよりは中級クラスのホテルのようだった。空間にゆとりのあるロビーのフロントで空き部屋があるかと訊くと、
「今晩空いているのは一部屋だけで、そこは650ルピーだよ」
 と対応した愛想のよい男性が言った。650ルピーか、と考えていると、
「明日になれば300ルピーの部屋が空くので、そうしたらそこに移れるようにしてあげてもいい」
 と言われた。ひとまず650ルピーの部屋を見せてもらうと、かなり広くて綺麗で、温水も使えるようだったので、多少高いがここにしようという気になった。

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 チェックインをする前に、一旦外に出て運転手のおやじと話をした。
 部屋があったことを伝えると、おやじは明日はタージ・マハルやアーグラのお勧めの場所を450ルピーで案内してやろうと言った。ツーリスツ・レストハウスからタージ・マハルまではそれなりに距離があるようなので、いずれにせよ明日の朝にリクシャーをつかまえる必要がありそうだったし、450ルピーという額も悪くないように思えた。僕は明日はこのおやじと一緒に行動することにした。
 おやじは明日の朝6時半にホテルの前まで迎えに来ると言い、リクシャーを運転して去っていった。

 再びホテルに戻り、チェックインの手続きをした。
 ホテルには西洋人が多く泊まっているらしく、ロビーにいるスタッフのひとりなどはフランス語で宿泊客と話していた。建物は3階建てで、敷地が広いため、部屋数はそれなりに多そうだった。建物は中庭を囲むようにして建っており、各階の廊下からその中庭を見下ろすことができた。中庭はレストランになっているようだった。
 部屋に荷物を置くと、夕食を取るために中庭のレストランに行ってみた。
 カシミールビリヤニというバナナの乗ったピラフのようなものと、マサラチャイを注文したが、なかなか美味しかった。気温は多少肌寒さはあるものの、デリーに比べればやはり大分暖かかった。

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 レストランでもやはり西洋人、それもフランス語で会話をしている人の姿が目についた。アジア人の旅行者は見たところ僕だけのようだった。スタッフは皆洗練されている感じで動きがよく、なにやらヨーロッパの片田舎の小さなリゾートホテルにでもいるような気がしないでもなかった。
 
 食事のあとは近くの店で水を買い、部屋に戻って温水のシャワーを浴びた。キャメルサファリ以来続いていた尻の痛みもほぼ消え、負傷箇所にかさぶたができていた。

 アーグラのあとはどこに行こう……バラナシか……それとも手前にあるカジュラホか……カジュラホも悪くなさそうだ……
 そんなことを考えつつ、広々としたベッドにもぐりこんだ。





<Day 11 プシュカル >



             1月16日 (プシュカル)

 7時過ぎに起きて部屋の外に出ると、隣の部屋からロバートも出てきたので、僕らは2人でホテルの外に出た。
 まだ外は薄暗く、吐き出す息が白かった。
 そのまま10分ほど歩いて湖に行き、ガートに出ると、そこにはすでに数人のインド人の姿があった。やがて山の向こうがうっすらと明るくなり始め、それが合図でもあるかのようにさらに多くのインド人が湖にやって来た。そして湖の水に身体を浸して沐浴をし、祈りを捧げ始めた。
 美しい光景だった。聖地であるプシュカルでは、早朝に人々が湖の水で沐浴をする。そう聞いていたので、僕とロバートは早起きをしてそれを見にきたのだった。
 他の場所がカオスで溢れているので余計にそう感じるのかもしれないが、プシュカルはとにかく平和な場所だった。僕とロバートは朝の光に輝く湖と、その光を浴びながら祈りを捧げる人々の姿をしばし眺め続けた。

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 その後、湖のほとりにあった屋上レストランに行った。
 湖を見下ろせる素晴らしい眺めのその場所で、僕はハニーレモン・パンケーキとコーヒーを注文し、朝食を取った。
 コーヒーを飲み、朝の空気を味わいながら沐浴を行う人々を見ていると、あらためて自分がインドにいることが信じられないような気持になる。まるで自分が別の人生を生きているような、あるいはこっちこそが本当の人生なのではないかという気すらしてくる。
 それはきっと何もかもが新しいからなのだと思う。旅は、とくに異国の旅における経験は、子供が初めて世界を覗くかのようにすべてが新しい。つまりあらゆることに慣れていないということだ。だからこそ普段の日常とくらべ、猛烈に自分の生を感じるのだろう。いつかはそれも日常に変わっていくのかもしれないが。

 日本とヨーロッパの巡礼者たちについてロバートと話したりしていると、ホテルのチェックアウト時間である10時になったので、僕たちはレストランを出てホテルに戻った。
 ホテルに戻り、オーナーと話して滞在をもう1日延長すると、僕は彼に鉄道のチケットの購入方法を訊ねた。プシュカルのあとは再度東にUターンする形でアーグラに向かおうと思っていたからだ。
 オーナーいわく鉄道のチケットは通常郵便局で購入するとのことだったが、なんなら彼が代わりに手続きをしてくれるというので、お願いすることにした。
 プシュカルには鉄道が来ていないので、まずはアジメールまで車で行き、そこで鉄道に乗り換えるとのことだった。僕は明日の昼の12時35分にアジメールを出発する列車のチケットを購入した。ロバートもまた、明日の深夜12時半にアジメールを出発するデリー行きのチケットを購入した。
 チケットの手続きが終わり、オーナーにこのあたりで何か面白い場所はないかと訊ねると、彼はこんなことを言った。
「オールド・プシュカルという場所を知っているかい?」
「オールド・プシュカル?」
 僕が訊ね返すと、オーナーはここから数キロ離れた場所にもうひとつ小さな湖があり、本来プシュカルはそこにあったのだと言った。今では町が現在の場所に移動したため大したものは残っていないが、湖やガートなどはそのままになっているという。歩いてでも行ける距離だというので、今日はそこに行ってもよいかなと思った。

 ホワイトハウスの屋上にもまた、屋上レストランがあった。チャイが飲みたくなった僕はロバートに屋上に行っていると告げて階段を上った。
 屋上に出て見る空は真っ青に晴れ渡り、汗ばむくらいに強い陽射しが照りつけていた。
 ホテルのスタッフがひとりでやっている小さなレストランでマサラチャイを注文し、椅子に座って飲んでいると、アジア系の顔立ちをした、小柄な女性が屋上に上がってきた。彼女の姿は昨日もこのホテルで見かけていたので、おそらく宿泊客なのだろう。はじめは離れた席に座っていたが、やがて僕のテーブルの隣に設置されていた二人掛けのブランコのようなものに座って本を読み始めたので、声をかけてみた。
 彼女はスイスからの旅行者だった。顔立ちが完全にアジア系なので、アジア系スイス人ということなのだろう。小柄で童顔なため女の子、と形容したくなるくらい若く見えるが、実際の年齢は30歳前後だろうか。インドに来て間もないという彼女に、僕はジャイサルメールやキャメルサファリの話をした。
 やがてロバートも屋上に上がってきたので、3人で話をした。
 これまでの道中や、これからの予定などについて情報を共有し合っていると、あるときから話題はお互いが持っているガイドブックの話になった。
 ガイドブックが話題になったきっかけは、ロバートとスイス人の女性が口々にお前の持っている本はすごいと言い始めたことだった。
 ロバートとスイス人の彼女が持っていたのは「LONELY PLANET」という、西洋人の旅行者にとって絶対的なスタンダードとなっている本で、僕が持っていたのはこれまた日本が誇る旅行ガイドブックの決定版「地球の歩き方」だった。
 たとえば僕らの誰もが行ったことのない、インドの南部のある町について話していたとする。僕らはそれぞれにガイドブックをのぞきこみながら、その町にはこんな名所があるらしいとか、こんな食べ物が有名らしいとか話をしていくのだが、「LONELY PLANET」にはごく表面的な情報しか書かれていないのに対し、「地球の歩き方」には町のこまかい歴史的背景や、現地に住む人種や宗教分布、それにちょっとした裏話のようなものまで、実にいろいろな情報が書かれていることが多かった。そして本を見ながらそうした内容を逐一彼らに伝えているうちに、そんな情報はこっちの本にはどこにも載っていない、その本はいったいなんなのだ、という話になったというわけだ。
 僕も前々から「地球の歩き方」の情報は本当に豊富だと感じていて、ここまで載せてしまったら現地での発見の喜びがなくなってしまうのではないかと危惧するほどだった。よって必要なところ以外はあまり積極的に読まないようにし、外出時には持ち歩かないなど、ある程度自分にルールを課していたところもあったのだが、このように自国の本を絶賛されると、それはそれでちょっと嬉しい気持ちになった。

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 そんな会話をしながら、それにしても、と関係ないことを思う。みんな英語がうまいよなあと。
 スイスの公用語はドイツ語なので、ロバートも彼女も母国語はドイツ語なのだが、別に無理する風でもなく普通に英語で会話している。さらに僕が感心したのは、彼らは2人で話し込むときでも僕がそばにいる限りは英語で話すようにしていたことだ。話すようにしていた、というのは彼らがそれを意識的に行っていることに僕は気づいていたからだ。
 キャメルサファリに行ったときもそうだった。ちょっと離れたところにロバートとリンダがいて、近くをぐるりと散歩してきた僕が近づいていったとき、彼らは確かにドイツ語で話をしていた。しかし僕がそばに来ると同時に、彼らは言語を英語に切り替えたのだ。別に僕が何かを喋ってその会話に加わったわけではない。彼らは引き続きそれまでと同じトピックで話し続けていたと思うのだが、言語だけが切り替わっていた。そうすることで僕がいつでも会話に加われるようにしてくれていたのだと思う。
 それは彼らからすれば些細なことだっただろう。しかし僕はそれ以降、異国人が混ざって会話をする際に、その場で言語的に取り残されているひとはいないかということを気にするようになった。僕は彼らから、異国人と付き合う際におけるマナーのようなものを学んだのだ。

 僕らは3人でオールド・プシュカルに行くことにした。
 ホテルのスタッフに大体の道を訊いて出発し、町の外に向かって少し歩くと、すぐに開けた道が続くようになった。天気はよく、寒くもなく暑くもないちょうどよい気候だった。
 のんびりした田舎道を、3人でテクテク歩いていった。人の姿はあまり見かけず、たまに牛や車とすれ違った。すれ違う車からは、歩いている僕らに対して手を振ってくるひとが多かった。

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 そういえば名前を訊いていなかったと、スイス人の女性に訊ねると、
「フォンよ」
 という返事が返ってきた。その名前から、あるいは彼女はベトナム系スイス人なのかもしれないなと思った。フォンはスイスで看護師をしているのだという。

 1時間ほど歩いてオールド・プシュカルに到着した。
 オーナーの言っていた通り、そこには小さな湖があり、沐浴するためのガートがあった。ただ肝心の湖の水がほとんど干上がってしまっており、地面が見えているところもある。プシュカルが現在の場所に移動したのは、この水の干上がりが原因なのかもしれないなと思った。
 それでもガートにはサリーをまとった数人のインド人の女性がおり、あまり綺麗には見えない水で沐浴を行っていた。寂れてしまったとはいえ、やはりここは聖地であるのだろう。

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 30分ほどそんな様子や、湖の傍を歩いていくラクダの列などを眺めていると、やることがなくなってきたので、そろそろ戻ろうかという話になった。するとフォンが言った。
ヒッチハイクして帰らない?」
 僕はそれまでヒッチハイクなどしたことがなかったし、これがデリーであれば警戒心が勝ってそんな気にはならなかったと思う。しかしこの平和なプシュカルではそれも悪くないアイデアのように思えた。
 僕らは町に向かって歩きつつ、車が来ると親指を立てる例のポーズをした。すると何台目かにやって来た大きなトラックが僕たちの前で停車した。
「プシュカルの町まで、いいかい?」
 ロバートが声をかけると、色の黒く髭をたくわえた中年の運転手が無言で乗りな、というジェスチャーをした。僕らはトラックのステップから運転席に登り、僕が助手席の後ろのスペースに、ロバートとフォンが運転手の横に座った。
 トラックが走り出し、景色が一気に流れ出した。運転手のおじさんはほとんど英語を話さなかったので、会話らしい会話はできなかったが、悪い人ではなさそうだった。車内には大音量で軽快なインド音楽が流れており、それが流れていくインドの景色とマッチしてなんとも言えない愉快な気分になってくる。
「This is great!」
 ロバートがニコニコしながら言った。僕もまったく同じ気持ちだった。インドの田舎で、見知らぬおじさんのトラックに乗って、インド音楽を大音量で聴きながら走っている。本当にそれは「グレイト」な感覚だった。

 やがてトラックがプシュカルの町に入ると、ロバートがこのへんで、というジェスチャーをし、大通りのてきとうな場所で礼を言って降ろしてもらった。おじさんは特に何を求めることもなく、ほとんど表情を変えずにそのまま走り去っていった。
 車で帰れたこともあり、日暮れまでには大分時間があった。僕とロバートは町の中にあるブラマー寺院を見に行くことにしたが、フォンは寺院には特に興味がないようなので一旦別行動を取ることになった。フォンは日没を見るために近くの丘に登りにいくと言い、僕らは時間があれば追いかけて合流すると言って別れた。
 そうして見に行ったブラマー寺院はそれほど興味をひかれる場所ではなかった。結局僕らはフォンを追いかけることはやめ、寺院を見た後は路上のチャイスタンドでチャイを飲んだり、ガートを散歩したりした。

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 その後、朝にも行った湖畔の屋上レストランに行った。
 僕らは少し早い夕食を食べ、食後のコーヒーを飲みながら夕焼けに染まっていくプシュカルの空を眺めた。ふと空に凧が舞っていることに気づき、見下ろすと一軒の家の屋上に兄弟らしき2人の男の子がいる。凧を飛ばしているのは兄のほうで、手慣れた手つきで凧を操作するその様子を弟が見ている。青とオレンジが混ざった空に、凧は静かに舞った。
「I think... I like this country(俺はこの国が好きだと思う)」
 そんな言葉が口から出た。ロバートはこの瞬間の思いを書き留めようとしているのか、手帳を開いてペンを走らせていた。

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 日が落ちると町はぐっと寒くなった。レストランを出て2人でメインストリートを歩きながら、そういえばフォンは無事帰ってきただろうかと考えていると、路上の店でひとりでフルーツジュースを飲んでいるフォンと出くわした。夕陽はどうだったと訊くと、
「スイスで見る夕陽とそんなに変わりはなかったわ」
 と言って笑った。
 そんなことを話していると、にわかに通りが騒がしくなってきた。見るときらびやかな服装をして白馬にまたがった男性を先頭に、多くの人が行列を作ってぞろぞろと歩いてくる。行列の中ほどにはこれまた白馬に引かれた銀色の馬車が見え、その周りではサリーに身を包んだ女性たちが楽隊の奏でる音楽に合わせて踊ったりしていた。
 結婚行列かな、と思った。きっとそうなのだろう。あの白馬に乗っていた男性が新郎で、新婦はきっと馬車の中に乗っているに違いない。それにしてもこんな豪勢なパレードをやるのだから、かなりの金持ちなのだろう。気がつけばプシュカルにこんなに人がいたのかと思うくらい、通りは多くの人で溢れていた。
 僕らも行列にくっついて歩き、写真などを撮っていると、他の見物客の中にジャイプルで会った73歳の老婦人がいるのを発見した。彼女もプシュカルに来ていたらしい。このような偶然も、旅の中にいると驚くことではないような気がしてくるから不思議だ。

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 その後ホテルに戻った僕ら3人は、屋上のレストランでチャイを飲みながら話をし、明日の朝も湖畔のレストランで朝食を取ろうと約束をした。
 寝る前に1階に下りてメールをチェックすると、リンダから返事が来ていた。どうやら彼女はまだジョードプルにいるらしく、そこからプシュカルにやって来るつもりだという。ただし到着するのは明後日になるというので、残念ながら僕らとはすれ違うことになる。
 再び巡り合う人もいれば、すれ違う人もいる。それもまた旅だなと思いつつ、僕とロバートがアーグラに行ったりプシュカルに来たりしている間、リンダはずっとひとつの町にいたのだなと思った。





<Day 10 ジャイプル >


            1月15日 (ジャイプル~)

 朝起きて、パールパレスの屋上に行った。
 しばらくするとロバートもやってきて、僕たちは朝食を食べながら話をした。昨晩見たインド映画の観客の熱狂ぶりなどについてしばし話が盛り上がったのち、僕は話題を変えて言った。
「実は航空会社に連絡しようか迷っていて……」
 なぜだい、と訊ねるロバートに対し、僕は今朝になってやはり思いを強くしたことを言った。
「滞在を延長しようかと考えているんだ」
 インドに来て10日目となり、帰国の日まであと7日となっていた。今日これからジャイプルを発ってアーグラに向かうとしても、そのあとはバラナシにも行きたいし、コルカタも見たい。そうなればかなり急ぎ足の移動になりそうだった。日にちが進むにつれてどんどん旅がせわしなくなっていくことに、これでよいのだろうかという思いが強くなっていた。
 幸い僕が購入したシンガポール航空のチケットは30日間までなら滞在日程を延ばすことができた。よって現状は1月21日にコルカタを出発する形になっているが、最長で2月3日まで帰国便を引き延ばすことができたのだ。ただその場合は当然変更手続きというものをおこなわなければならない。それが電話でできるものなのか、航空会社のオフィスに行かなければならないのか、よくわからなかった。
 ロバートは延長に大賛成だったが、予定通り日本に帰る方針も依然として捨てきれない僕はひとまず決断を保留にし、ホテルに戻って荷物をまとめることにした。ロバートはもう数日ジャイプルに滞在したのちにデリーに向かうということだったが、早めにバスのチケットを買ってしまいたいということで、僕と一緒にバスステーションまで行くことになった。
 パールパレスの前には、昨日祭りを祝いたいといって先に帰ったリクシャーの運転手がいた。しばし雑談をし、今日ジャイプルを発つことを伝えると、
「じゃあ、なにか日本のものをくれないか」
 と彼が言った。記念のギフトとしてほしいのだ、という。その提案に多少の厚かましさを感じなくもなかったが、昨日一緒に行動して悪い男ではないと感じていたので、財布に残っていた50円玉を取り出してプレゼントした。彼は礼を言い、タバコを1本くれた。
 
 ホテルに戻ってチェックアウトをし、荷物をまとめて再びパールパレスに戻った。
 ロバートはホテルのインターネットルームでメールをチェックしていた。横に座ると、彼は僕のために航空会社のオフィスの場所を調べてくれた。僕のチケットはシンガポール航空のもので、残念ながらシンガポール航空のオフィスはジャイプルにも、これから行く予定のアーグラやバラナシにもないということだった。コルカタにはあるようだが、その場合は結局21日までにコルカタに行かなければならなくなる。
「ここから一番近い場所だとデリーになるな」
 ディスプレイに映し出されたオフィスの一覧を見ながらロバートが言った。
 デリーか……
 一度行った場所に戻るのは正直あまり気が進まなかった。ただデリーであればアーグラからでも比較的簡単に行くことができる。デリーとジャイプルとアーグラはちょうどデリーを頂点にした三角形のような形になっており、ジャイプルはデリーの南西、アーグラはデリーの南東に位置していた。この3つの街をまわるルートは「黄金の三角形ルート」とも呼ばれ、インドを短期間で旅行する人にとっての定番ルートでもあった。
 僕は心を決めきらないまま、とりあえずバスステーションに向かうことにした。

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 2人でリクシャーに乗ってバスステーションに向かった。
 僕はアーグラへ向かい、ロバートはデリーに行く途中にあるアルワールという町までひとまず向かうということだった。ところがリクシャーの中で、ふいにロバートが思わぬことを言った。
「プシュカルに行こうと考えたことはないか?」
 僕はあると答え、しかし日程的に厳しくなりそうなので今回の旅ではあきらめることにしたと言った。
「実はプシュカルに行くのもいいかと思って、迷っているんだ」
 なんでもジャイプルにもう数日滞在するのもよいが、今日のうちにプシュカルに行き、そこで数日過ごしたのちにデリーへ向かうのもよい気がするというのだ。
 このままバスでプシュカルに向かう……確かに地図で見る限りジャイプルとプシュカルはさほど離れていなかった。来る際に通り越してしまったが、ここから戻るという選択肢だってあるのだ……その事実になにかはっとするような思いでいると、リクシャーがバスステーションに到着した。

 時刻は11時半だった。少し歩くとチケット売り場が見つかり、窓口の上には様々な場所に向かうバスの料金と出発時刻が書かれていた。
「プシュカル行きは1時に出るようだな」
 まだ迷っている様子のロバートが言った。
 ジャイサルメールの運転手にその名を聞き、イスラエルの男からも聞き、そして今ロバートもその名を口にした。この場所にはなにかがあるような気がした。僕は段々プシュカルに行きたくなってきた。俺も行こうかな……と言うと、ロバートは嬉しそうに、それがいい、そうしようじゃないかと言った。僕は日記やメモなどを記録し続けているノートをウェストポーチから取り出すと、全行程の日付を縦に書きつけていたページを見ながら計算を始めた。
 今日は1月15日だ。そして今からプシュカルに向かうということは、21日にコルカタに帰るという当初の日程を放棄することを意味する。もちろん17日くらいにプシュカルを発てば、21日までにコルカタに着くことは可能だろう。しかしそうなればアーグラもバラナシもすっ飛ばして直行しなくてはならなくなり、そのような行程は自分にとって現実的ではなかった。
 もし電話でチケットの延長ができなければ、直接シンガポール航空のオフィスに行く必要がでてくる。最も近いのはデリーだ。ひとまずプシュカルに行き、向こうでオフィスに電話をする。もし電話でチケットの変更ができればいいし、できなかったらそこからデリーに行けばいい。プシュカルからでもデリーはそれほど遠くない。
 僕はノートから顔を上げ、どうする、といった表情で見ているロバートに言った。
「Why not?」
 いいじゃないか、行こう、プシュカルへ。
「そうこなくちゃ!」
 ロバートは軽くガッツポーズを作って笑った。

 プシュカル行きのチケットは107ルピー、たったの215円ほどで、時間も4時間くらいで到着するとのことだった。ロバートはチェックアウトをするために一旦ホテルに戻り、やがてバックパックを抱えて戻ってきた。
 見たところ外国人の比率の多そうなプシュカル行きのバスに乗り、走り出した窓の外の風景を眺めていると、自分は正しい決断をしたのだという感覚が体に満ち溢れるのを感じた。延長を決めたことで、帰りの日数と、各所の滞在日数を頭の片隅で計算し続けていた状態から解放され、僕は随分リラックスしていた。チケットの手続きなどはたしてうまくやれるだろうかと感じていた不安も、いざ心が決まってしまえばどうにでもなるように思えた。

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 もっと自由に動けばいいのだ……最初に決めた予定に縛られることなどない。なんなら帰りのチケットを買い直したっていい。インドから別の国に行ったっていい。可能性は常に、全方向に開いているのだ。英語に不安があろうが、かけずりまわり、必死に話せばなんとか道は開ける。要は自分がどうしたいかなのだ……
 もちろん所持金の問題があり、その制約を完全に無視することはできなかったが、それでも自分の中のひとつの扉が開いたような気がした。そしてそれはどこかでロバートの存在が大きかったようにも思う。
 窓の外を歩く人々や通りの様子を眺めていると、とんでもない異国に来たと感じていたデリーの頃とくらべ、どこかで目の前の光景を普通に受け入れている自分に気がつく。人間どんなものにでも慣れてしまうのだ。日本に帰ったらどんな風に思うだろう? ちゃんと感じることができているだろうか? 何かを得たいという気持ちが強いあまり、素直にものを受け止められていなかったりしないだろうか? 実際の体験を、期待した体験にすりよせたりしていないだろうか? ただ見ればよいのだ。帰る者としての目ではなく、そこにいる者の目で……
 あのとき成田空港のチケットカウンターで家に帰ることを決めていたら、僕は今ここにはいなかった。しかしあのときは、家に帰ることが正しい選択のようにも思えた。だから決してわからない。選択の先に何が起こるかなんて、決してわからないのだ。
 インドに来たのは正解だった。土埃に舞う外の景色を眺めながら、そう確信していた。

 バスはアジメールという町に一旦停まり、そこから30分ほど走ってプシュカルに到着した。
 宿の客引きが何人かやってきたが、デリーやジャイプルと違ってしつこくなく、断るとすぐに納得して去っていった。
 プシュカルは小さな湖のほとりに作られた町で、ここもまたヒンドゥー教の聖地のひとつとされていた。バス停から少し歩くと町の中に入ったので、僕とロバートは今晩の宿を探して通りを歩いた。
 ホワイトハウス、アティーシ、OM、アマールといった名のホテルを順番に周って値段を訊き、部屋を見せてもらった。通りは人も車も少なく、ジャイプルとは比べものにならないくらい静かで平和な感じだった。あるいは聖地という土地柄も影響しているのかもしれない。僕は歩きながらすでにこの町が好きになっていた。ホテルの人々も皆親切で、別のホテルをチェックしてから決めたいと言うと、わざわざ次に行こうと思っていたそのホテルまでの道筋を教えてくれたりもする。そういった対応は、これまで訪れたインドのどの場所でも経験したことがないものだった。
 結局最初に見たホワイトハウスという名のホテルがよいということになり、部屋を取った。名前の通り壁が真っ白に塗られている2階建ての建物で、部屋数は10あるかないかくらいの小さなホテルだった。
 人のよさそうなホテルのオーナーと交渉をした結果、2部屋を900ルピーで貸してくれるということになった。部屋のサイズが違ったのでロバートとコイントスを行い、勝利した僕が大きいほうの部屋に泊まることになった。階段を上がった2階にあるその部屋には大きなダブルベッドにテーブル、それに3、4人は座れるソファーが置いてあり、それでも空間にゆとりがあった。さらに扉からテラスに出ることもでき、これで1部屋450ルピー、900円ほどであれば悪くないなと思った。

 日も暮れ始めていたので再び外に出て、湖まで歩いてみた。
 湖のほとりにはガートと呼ばれる階段が設置されており、そこを通ることで水辺まで行くことができた。
 ガートの入口には修行者のような服装をした男がおり、花びらを乗せたプレートのようなものをロバートに差し出した。そして男は祈りのようなものを一緒におこなうようにと、うながした。ロバートはノーと言い、
「俺の内なる声が、やるなと言っている」
 と、彼のスピリチュアルな外見を茶化していると言えなくもない表現で、申し出を拒絶した。
 プシュカルは背の低い山に囲まれているため、湖の水面に落ちる夕陽を見ることはできなかったが、夕暮れ時の湖は平和な空気に包まれ、心が落ち着く場所だった。僕らはガートに佇みながら、しばしその空気を味わった。
 その後は近くにあった屋上レストランで夕食を食べた。食事が終わるとロバートは一足先にホテルに戻って行ったので、僕はひとりでプシュカルの町を散歩した。
 すっかり暗くなった通りは人の姿もまばらで、のんびりと散歩をしている牛とすれ違ったりした。静かだった。いくつか土産物屋などをのぞいたりもしたが、店の主人もみな穏やかな感じで、特になにかを勧めてきたりもしない。ただ僕が見るままにまかせ、そのまま店を出ようとしても引き留めることもしない。デリーでは絶対にありえないことだった。インドにもこんな場所があるのだなと思った。

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 ホテルに戻り、パソコンが2台だけ置いてあるインターネットルームでリンダにメールを送り、シンガポール航空の情報をチェックした。
 その後は部屋に戻り、温水のシャワーを浴びた。キャメルサファリで負傷した尻がまだ少しだけ痛んだ。
 シャワーのあとは部屋で所持金の計算をした。旅を延長することにしたので、自分の金銭状況を確かめておこうと思ったのだ。
 計算したところ、インドに着いてからの10日間で1万3千307ルピー使っていることがわかった。日本円にして2万7千円弱といったところだ。思ったよりも少し使っているなと思った。一日平均で2700円弱くらい使っている計算になる。
 とはいえ手元にはまだ800ドルと、2万2千円の現金があった。ルピーにすれば5万ルピー以上にはなる。滞在を30日に延ばしたとしても、まず問題なく持つだろうと思えた。うまくいけば本当に新しく航空券を買うことだってできるかもしれない。
 当面は大丈夫そうだ……そう思い、プシュカルに来る決断をしたことをあらためて喜びながら眠りについた。

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(プシュカルで泊まったホワイトハウス

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 (旅の間は毎日ノートに記録をつけていた)





<Day 9 ジャイプル >


            1月14日 (ジャイプル

 7時半に起き、ホテルの屋上に上がった。
 昨日ホテルのオーナーと話した際に、朝から屋上で凧を上げるから見に来るといいと言われていたのだ。
 屋上にはミシェルがいたのでまた少し話をし、ホテルのスタッフらしき男性2人が凧をあげるのをしばし眺めた。雲は少し出ているが、いい天気になりそうだった。青い空に凧はゆっくりと舞った。
 その後パールパレスに行き、そこの屋上レストランでロバートと一緒に朝食を取った。インドではこの屋上レストランというものがとても多く、そういった場所は大抵眺めもよくて気持ちがよかった。それはパールパレスのレストランも例外ではなく、ホテルの洗練された雰囲気も加わって、これまで行った屋上レストランの中でも一番ではないかと思えるくらい素敵な場所だった。注文したチーズトーストもとても美味しく、このホテルの人気が高いのも当然だなと感じた。

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 食事をしながらなんとなくお互いの生活についての話となり、僕はここ数年自分が臆病になり、自分の可能性を狭めて暮らしていたように思うこと、そしてこの旅に出てその可能性が広がったような気がするといったことを話した。
 ロバートは自分のパートナーについて話をした。彼は結婚していなかったが、一緒に住んでいる女性とその女性との間に生まれた息子がいた。結婚はしないのかと訊ねると、したくないし必要も感じないと言った。彼は今インドをひとりで旅しているが、実はインドに入る前はパートナーと息子と3人で東南アジアを旅していたのだという。そしてインドは息子を連れて旅するには厳しい土地であると思い、そこからは家族と別れて一人旅に切り替えたのだという。旅の途中で家族と別れて一人になる……よくパートナーが許したものだと思いつつ、そんな旅の仕方もあるのだなと感心してしまう。彼はバンコクから飛行機でムンバイ(ボンベイ)に行き、そこからウダイプル、そしてジャイサルメールに来たとのことだった。
「俺のパートナーはもともと外に出かけたりするのが好きな人間だったんけど、あるとき急に家の外に出るのを恐れるようになってしまったんだ。だから今回の旅は彼女にとってものすごく大きな出来事で、彼女自身もそれを実現できたことを本当に喜んでいたよ」
 パートナーと息子はすでにドイツに戻ったという。ロバートは旅に出てすでに3カ月くらいになり、インドの後はバンコクに戻り、そこからドイツに帰るつもりだと言った。
 だが……と、ロバートは少ししんみりするように話を続けた。
「こういうバックパッカーとしての旅を、自分はいったいいつまでやれるのかなとも思う。昨日も俺は数百ルピーでドミトリーに部屋を取ったし、それはそれで全然構わない。他の旅行者と部屋を共有するのは面白くもあるしね。でも俺は43歳で、テレビの放送作家としての仕事も持っている。別に金がないわけじゃない。もっといいホテルに泊まって、悠遊と旅をすることだってできる。今回旅をしていて、なにかそろそろそういう旅に切り替えてもいいのかなって思うこともあるんだ」
 ロバートの問いは、旅の魅力にからめとられてしまった他の多くのバックパッカーの問いでもあった。僕は今回インドに来る前に、34歳ではすでに遅かったかもしれないと感じていた。インドのような土地で安宿を探し回って貧乏旅行をするというのは、やはり20代とか、そういった年齢でやるべきことなのではないかという思いがあったのだ。しかしいざインドに来てみれば自分と同じような年齢、または自分よりも年上のバックパッカーなどが普通にいっぱいいることを知って安心し、なによりデリーの衝撃が強かったためそんなこともすっかり忘れて街をふらつきまわっていた。
 ただ街で見かけるバックパッカーの中で、僕が見出したひとつの傾向があった。
 確かに街を歩くバックパッカーは若者に限らず、30代もいれば40代もいる。50代以上に見える旅行者もめずらしくない。年齢の偏りはそれほどなく、各世代がそれなりに均等に存在する印象を受ける。
 ただし、これは西洋人においての話だった。
 たとえばこれが日本人となると、バックパック旅行をしている風体の旅行者は20代から30過ぎくらいまでが主で、40代以降となるとほとんど見当たらない。見たことがないと言ってもよいかもしれない。そもそもインドでは日本人の旅行者を数えるほどしか見ていなかったが、これはインドに限らず他の外国でも一緒だと思われた。よって僕が姿を見てやや安心した存在というのは、基本的に西洋人のバックパッカーだったことになる。彼らは年を重ねても、どこか旅に対して自由であるように見えた。それは長期休暇が取りやすい西洋の社会事情も関係しているのかもしれない。

<長い旅などは若いうちだけ。いい年になったらふらふらしないで社会の中に足場を固めることに集中しなさい……>

 自分の足場を固めた上で長い旅に出る。日本社会におけるその難しさを思った。そしてだから日本人のバックパッカーは年齢が上がるほど、世の中からはじかれてしまったような、屈折感がにじむ者が多くなるのかもしれないと思った。彼らは旅を捨てられなかったのだ。20代の頃にその魅力にからめとられ、30代になっても忘れられず、気づけば日本の社会に居場所を失っていた。だからそれを忘れるためにまた旅に出る……
 自分もいつかはバックパッカーとしての旅行がつらくなるときが来るのだろうか。それは頭で考えれば当然のことのようにも思えたが、今の自分にはよくわからなかった。

 その後今日のプランをどうするかという話になり、郊外にあるというアンベール城、そして旧市街の東にあるナルガール要塞という場所に行ってみようという話になった。
 階段をおりてフロントまで行き、そこでリクシャーを呼んでもらった。行程を聞いた運転手は、町の近くに「モンキーテンプル」という猿がいっぱいいる寺院があるから、そこにも案内してやろうと言ってきた。僕らはそれも面白そうだと同意し、全行程を550ルピーでまわってもらうことで話がまとまった。
 まず初めにモンキーテンプルに行った。リクシャーを停めて坂を登っていったところにあるその寺院には確かに猿がいっぱいいた。また高い場所にあるために眺望がよく、坂の途中からはジャイプルの街が一望できた。屋上で凧を上げている人の姿が見え、至るところで音楽をかけているらしく、丘の上にいる僕らのもとまで音が聴こえてきた。
 その後町の郊外で凧を上げる人々や、祭りを祝う楽隊の演奏などを見物したのち、アンベール城に行った。淡く黄色がかった石一色で統一されたその城は、予想以上に立派で大きいものだった。
 チケットは普通のチケットと音声ガイドつきチケットの2種類があったので、普通のチケットを購入した。値段は200ルピーだった。中はちょっとした迷路のようでもあり、インド人と外国人両方の観光客がたくさんいたが、敷地が広いのでそんなに混み合っている感じもしなかった。城は岩山を背にするようにして立っており、装飾を凝らした門や壁などなかなか見応えがあった。ガイドがないのではっきりとした歴史的背景などはわからなかったが、かつてインドに存在した王朝のひとつが建てたものなのだろう。インドが持つ多様な歴史の一端を感じさせられた。

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 ゆっくりと2時間くらいかけて広い城内をまわったのちに、リクシャーの運転手のもとに戻り、この日最後の目的地として設定したナルガール要塞に向かった。
 ナルガール要塞はジャイプルの旧市街の東端に隣接する小さな山の上に建てられていた。僕らは山のふもとにリクシャーを待たせて歩くことになったのだが、いざ歩き出そうとしたときにリクシャーの運転手が思わぬことを言い始めた。
「今日は祝祭の日なので早めに家に帰って家族と一緒に祝いたい。なので私はここで帰ってもよいか?」
 約束ではすべての場所をまわってからホテルまで送り届けてくれるということになっていたので、それは約束が違うとロバートはいささか憤慨した様子で言い返した。しかし運転手はどうしても家に帰りたいらしく、ここなら別のリクシャーもすぐ見つかるし、ホテルまでもせいぜい50ルピーぐらいだと、どうにか僕たちを説得しようとする。どうしたものかと思ったが、祭りを家族と一緒に過ごしたいというのはなんとなく理解できる気がしたし、最終的に彼の要望を受け入れることにした。
 運転手が走り去ったのち、それなりに急な坂を20分ほど登っていくと、山の頂上にあるナルガール要塞に到着した。アンベール城に比べるとやや見る所の少ない場所に感じたが、山からの眺めは素晴らしかった。近くにいたリクシャーの運転手が声をかけてきたので、パールパレスまでの値段を聞くと300ルピーだと言ってきたので冗談じゃないと言って断り、再び山のふもとまで歩いて戻ることにした。
 つづら折りになっている石畳の道をゆっくりと降りていくと、やがて日が暮れはじめ、ジャイプルの街の向こうに大きな太陽が沈んでいくのが見えた。
 さらに坂を下りていくと、薄暗くなりつつある空に花火が上がり始めた。僕らは山の中腹にいるので、花火は眼前に見下ろす街からちょうど僕らの視線の高さに向けて上がってくるように見える。それも一箇所ではなく、街のあらゆる場所から打ち上げられていた。
 さらに眼下の街が近づいてくるにつれて、昼間から聴こえていた音楽の音量もどんどん大きくなっていった。すべての家がスピーカーのボリュームを最大にして音楽をかけているのではないかと思うくらい、街全体がものすごい音で包まれている。
 ドンドコ、ジャカジャカ、ドンドコ、ジャカジャカ……あらゆる音楽が混ざり合ってひとつの大きな音となり、空のいたるところでは花火が弾け、それと重なるようにして凧が舞っている。まるでジャイプルの街全体が生きて、動いているようだった。
 祭りだ……確かに今日は祭りだ。それは圧倒的な光景だった。
「This is amazing!」
 同じく興奮してその光景を眺めるロバートと言葉を交わしながら、僕はこのような日にたまたまこの街を訪れ、この時刻に街を見下ろすこの場所にいる自分の幸運を思った。

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 音楽と花火と凧のスペクタクルを堪能しながらふもとまで下りた僕たちは、そこでリクシャーをつかまえてパールパレスに戻り、屋上のレストランで夕食を食べた。
 今日は夜の9時半から映画を見ることになっていた。まだ7時半を過ぎたばかりだったので、のんびりと食事をしながら、レストランで出会ったニュージーランドから来たカップルや、同じく旅行をしているという73歳の年配の女性らと言葉をかわして過ごした。ロバートは悠々と旅をしている年配の女性になにやら感銘を受けたようで、しばらく2人で話し込んでいた。
 9時過ぎにホテルの前でリクシャーをつかまえて映画館へ向かった。
 5分ほど走って映画館に着くと、建物の前にはかなりの数の人が集まっていた。チケット売り場の前には長蛇の列ができており、これは事前に買っておいて正解だったなと思った。
 外から見ると建物は薄汚れていて、それほど新しい感じもしなかったのだが、中に入るとすごく綺麗で豪華なので驚いた。

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「こいつはムービー・パレス(映画宮殿)だよ!」
 ロバートが興奮しながら言い、2人で写真を撮ったりしていると、奥のほうから「ワーッ」という大歓声と指笛をピーピー鳴らす音が聞こえてきた。
「映画が始まったのかもしれない!」
 ロバートが言い、2人で走っていった。
 席は1階と2階に分かれており、僕たちは2階の指定席だった。扉を開けて薄暗いシアター内に入ると、予想通り映画がちょうど始まったところだった。
 観客の興奮度合いはすさまじかった。オープニングクレジットが始まり、主演男優が画面に登場した途端にやんやの大歓声。ヒロインが画面に映るとまた大歓声。特に1階席にいる者たちの反応がすごく、アクションシーンやダンスシーンなど始まろうものならとんでもない騒ぎになる。みんな立ち上がり、声をあげたり、拳を突き上げたり、一緒に踊ったりと、大げさではなく、ワールドカップの決勝でも見ているかのような熱狂度合だった。映画自体もなかなか面白かったのだが、観客を見るのはその何倍も面白かった。
 映画は休憩をはさんだ2部構成になっており、全部で4時間くらいあっただろうか。言葉はわからないなりに、なんとなくストーリーは追えた気がした。やがて長かった映画もようやくハッピーエンドにたどり着き、心地よい余韻にひたりながら、リクシャーに乗ってホテルに帰った。

 パールパレスに着き、明日も屋上レストランで朝食をしないかとロバートに言われ、さてどうしようかと思った。僕は明日の朝、ホテルからそのままジャイプルのバスステーションに直行するつもりでいたのだ。
 僕はそのバスステーションから、アーグラという街に向かうバスに乗るつもりだった。つまり明日ジャイプルを去ろうと思っていたのだ。短い滞在だったが、フェスティバルの日にちょうど当たったりと、悪くない時間が過ごせたように思えた。もう数日滞在しても、それはそれできっと楽しい滞在になるだろうが、他にも訪れたい場所がある以上、移動のタイミングも考えなくてはならなかった。
 僕はしばし考え、アーグラとジャイプルは大して距離が離れていないことから、多少遅れて出発しても問題なかろうと思い、ロバートの誘いを承諾した。
 いずれにせよ、僕は明日アーグラに向かうのだ……
 時間に追われるような窮屈さをどこかで感じながらも、自分にそのように言い聞かせた。
 インドに来て、9日間が過ぎていた。

 

 

 

 

<Day 8 ジャイプル >


               1月13日

 目が覚めたとき、バスはどこかのバス停に停車中だった。
 寒さのせいでなかなか寝つけなかったが、それでも2、3時間は眠りに入っていたような気がする。そうすると今は午前3時くらいだろうか? まだ外は暗く、トイレに行こうと思ってバスを降りると、外にいたひとりの男がホテルを紹介すると声をかけてきた。いや俺はトイレに行くだけだからと言おうとし、ふと腕時計を見た。
 「6:30」というその表示を見たとき、嘘だろと思った。すでにジャイプルの到着予定時刻を大幅に過ぎている。そんなに眠った感覚もなかったが、いつの間にか朝になっていたようだ。
 しまった寝過ごしてしまったかと焦り、いったいここはどこなのだろうと声をかけてきた男に訊ねると、なんとここがジャイプルだと言う。念のためバスの運転手にも確認すると、確かにここがジャイプルだと言った。どうやらぎりぎりのタイミングで目を覚ますことができたようだった。1、2時間の遅れは当たり前という、インドの交通機関のルーズさに感謝するしかない。
 急いで荷物を取りバスの外に出ると、ほどなくしてバスは走り去っていった。イスラエルの男が寝ていた下段シートも空になっていたので、寝ている間にプシュカルも通り過ぎていたようだ。

 まだ薄暗い道を、地図を見ながら歩いた。ジャイプルには「パールパレス」というバックパッカーに人気のホテルがあると聞いていたので、そこに行こうと思っていたのだ。
 しかし降りたバス停が地図のどこに相当するのかがわからず、30分くらい歩いても現在地がつかめなかった。らちがあかないと思い、リクシャーをつかまえて連れてってもらうことにした。
 呼び止めた運転手は100ルピーで行くと言ったが、どう考えてもそれは高すぎる気がしたので交渉して50ルピーに値切り、ホテルの前まで運んでもらった。案の定10分もしないうちに着いたので、50ルピーでも大分いい値段だったことになる。この頃にはすっかり夜も明け、あたりは明るくなっていた。
 ジャイサルメールとは違い、ジャイプルはデリーのようなしっかりとした街だった。道はアスファルトで舗装され、比較的モダンな建物が立ち並んでいる。
 パールパレス・ホテルもまた、レヌーカなどと比べると随分立派で小ぎれいな建物だった。
 フロントで部屋はあるかと訊ねると、個室はいっぱいで、地下のドミトリー(大部屋)ならひとつだけベッドが空いていると言われた。
 ドミトリーか、なるべくなら個室に泊まりたいな……と逡巡していると、対応してくれていた男が言った。
「このホテルの屋上にレストランがあるから、そこで時間を潰して10時になるまで待ってみるといい。10時になったらひょっとしたら空きができるかもしれない」
 ならそうするかと僕はホテルの階段を上がり始めた。しかし2階の踊り場まで来たところで、まてよと思った。なにもこのホテルにこだわって泊まることもない、この近くには他にもホテルがあるだろうから、まずはそっちを当たってみることにしよう……そう考え、僕は階段を下りて一旦パールパレスの外に出た。

 周辺にはやはりちらほらとホテルがあり、何軒かは部屋が空いていないといって断られたが、やがて空き部屋のあるホテルが見つかった。ここもなかなか立派なホテルで、値段も600ルピー、約1200円とそれなりの値段がしたが、これ以上探し回るのも面倒だったので部屋を取ることにした。
「明日はこの街で大きなフェスティバルがあるんだ」
 部屋の手続きをしてくれたホテルのオーナーがそう教えてくれた。なんでも「カイト(凧)・フェスティバル」というもので、たくさんの凧を空に飛ばし、道の至る所で焚き火をおこなうのだという。ホテルの部屋があまり空いていなかったのもそれが原因だったのかもしれない。
 案内された部屋は広々としていた。ベッドのほかにテーブルとイスが設置されており、温水のシャワーも使え、まったく申し分のない部屋だった。僕はまずホテルの屋上にあったレストランで軽い朝食を取り、部屋に戻って何日ぶりかになる温水のシャワーを浴びた。ジャイサルメールでラクダに乗ったときからずっと尻の痛みを感じていたのだが、シャワーを浴びた際に調べてみると、やはり皮がむけて腫れていた。これはもう一日乗ったらさらにひどいことになっていただろう。

 ロバートと決めた待ち合わせの時間は午後1時だったので、12時過ぎにホテルを出発して歩いていった。大通りは車で溢れ、朝方と比べてずいぶん交通量が増していた。デリーの騒音が思い出されたが、気温に関してはジャイプルのほうが多少南にあるせいなのか大分暖かいように感じた。
 待ち合わせ場所のカフェにはすぐ着いてしまったので、まだ大分時間があった。
 こういった状況や、どちらかがトラブルで遅れた場合などにそなえ時間を潰しやすいカフェを選んでいたのだったが、問題はそのカフェが潰れていたということだった。看板などはまだ残っているものの、ガラス張りの入口から見える店内はテーブルやイスがすべて運び出されており、ガランとしていた。
 仕方がないので店の前の石段に座ってタバコなどをふかしながら待つことにした。
 待ちながらふと、ロバートは本当に現れるだろうかと思った。かつて、いやほんの少し前まで、待ち合わせとはこういうものだった。携帯電話のない時代ではあらかじめ場所と時間を決め、そこに行く。それだけだった。あとは待つ以外にやれることはなにもない。そんな風に当たり前だったことが、異国にいるという状況と相まって、なんだかとても不確かで、しかし面白いことをしているような気分にさせる。携帯電話があれば、相手とは常にどこかでつながり続ける。何かがあればその場で連絡を取り合えばいい。しかしジャイサルメールで約束したあと、僕とロバートとのコネクションは一回切断された。あとは各々がどこで何をしているかもわからないし、何をしていようとそれに干渉するすべもない。あるのは約束したという事実だけ。相手がそこに来るのを信じる気持ちだけなのだ。
 常につながっているというほうが異常なのだ……
 ひとりでぽつんと座り、ジャイプルの道を行きかう車を眺めながら思いをめぐらせていると、遠くから見覚えのある男が手を振りながら近づいてきた。ロバートだった。
 こうして切れた接続は、再びつながっていくのだった。

 2人で再会を喜び合い(といっても別れてからまる一日も経っていないのだが)、とりあえず近くのマクドナルドに入って話をした。
 ロバートもパールパレスを訪れたようで、彼は地下のドミトリーに部屋を取ったと言った。
 マクドナルドを出ると、そのすぐ近くに比較的大きな映画館があるのが目に入った。
「インド映画を見てみたくないか?」
 そう訊かれて、それは面白いかもなと思った。事前にチケットを予約購入できるようだったので、僕らは映画館の入口の脇にあったチケット売り場に行った。上映されているのは2本で、ひとつは人間ドラマのようなシリアスな雰囲気の作品、もうひとつはおどけた顔をした中年男3人と、1人の美しい女性が写っている、いかにもコメディタッチな感じの作品だった。
「これなら言葉がわからなくても楽しめそうだな」
 そうロバートが言い、僕らはそのコメディタッチの映画の、翌日の夜9時半から始まる回のチケットを購入した。料金は150ルピー、300円ほどだった。
 映画の題名は「Yamla Pagla Deewana」といった。

 その後はジャイプルの街を歩いた。
 ジャイプルは城壁に囲まれた旧市街と、その周りに広がる新市街によって構成されており、旧市街の中にはシティ・パレスと呼ばれる宮殿や、ジャンタル・マンタルと呼ばれる大きな天文台など、歴史的な建造物が比較的残されているようだった。パールパレスや僕の泊まっているホテルは新市街にあり、旧市街と鉄道駅の中間あたりに位置していた。
 僕らは歩いて旧市街まで行き、茶色とピンクの中間のような鮮やかな色で塗られた城壁をくぐって中に入った。あたりは人と車とリクシャーでごったがえしており、ビーッ、ビーッという間断のないクラクション音が、あのデリーのカオスを思い起こさせた。ジャイサルメールでは大分のんびりした雰囲気にひたることができたが、またこのカオスの中に戻って来たのだなと思った。

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 デリーにはまだ行ったことがないというロバートは、このジャイプルのカオス状態に少し驚いたようだった。そしてデリーと同じように僕たちにしきりと接触してくる物乞いや、得体の知れない人間たちに対し、幾分苛立っているようにも見えた。
 ジャイサルメールにも物乞いはたくさんいたが、デリーやジャイプルのような大きな街ではその数はさらに多くなる。数が増えれば接触する頻度も高まり、そうすると中には体をつかんではなさなかったりと、幾分強引なアプローチを取ってくる者も含まれてくる。
「触らないでくれ」
「あっちに行け!」
 そうした物乞いに腕などをつかまれるたびに、ロバートはそう言って払いのけていた。
 彼は基本的に物腰が柔らかく、細かいところにも気を配る優しい男だったが、移動の疲れもあるのかこの日は少し神経質になっているようにも見えた。とはいえ僕自身も邪険な対応はしないようにと思いつつも、すでにジャイサルメールの平穏が恋しくなっていたのだが。
 
 350ルピーの入場料を払ってシティ・パレスを見物し、続いて「風の神殿」と呼ばれる場所に行ってみたが、そっちはすでに開館時間が終了していた。そこからはホテルに戻るというロバートと別れ、ひとりでしばらく街を歩き回った。明日のカイト・フェスティバルに備えてなのだろう、路上には凧を売っている店が多かった。帰りにパールパレスに立ち寄り、空き部屋はできたかと訊いてみたが、また明日の朝にならないとわからないと言われたので、もうここに泊まらなくてもよいかな、という気分になった。

 自分のホテルに戻り、屋上にあるレストランに行き、カレーとライスとチャイという、いつもの組み合わせの夕食を食べた。このホテルにはあまり宿泊客がいないのか、レストランでは僕以外にもうひとり中年の西洋人の男性が食事をしているだけだった。
 タイル張りになっている空間の隅には小さな天幕と赤い絨毯が敷かれており、その前で操り人形を使ったショーのようなものがおこなわれていた。

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 が、なにぶん客が2人しかいないため、そのパフォーマンスにもいまひとつ覇気がない。あやつり人形を動かす演者は僕が日本人だとわかったようで、人形を動かしながら「サクラ、サクラ……」と歌いだしたり、パフォーマンスが終わって挨拶する際に「サヨナラ、サヨナラ」と日本語を混ぜたりした。
 人形のパフォーマンス自体はそれほど面白いものには感じられず、彼のアピールにもあまり反応しないようにしていたのだが、いかんせん客が2人しかいないということもあり、彼がターゲットにできる対象は限られていた。やがて演者は僕のテーブルにやってくると、目の前でパフォーマンスを始めた。さすがに席を立つわけにもいかないので、食事をしながらそのパフォーマンスを眺めていると、案の定終わったあとにチップを要求された。30ルピーを取り出して渡すと、100ルピーくれと言ってきたので、ノーと言って跳ね除けると、その後はこちらに干渉してこなくなった。

 なんとなく寂しさのただようそのレストランで、いつしか僕は別のテーブルで食事をしていた中年男性と話し始めていた。
 彼はフランス人で、名前をミシェルと言った。パールパレスに泊まれなかったことを話すと、このホテルでいいじゃないか、ここは素晴らしいホテルだよと言った。彼はこれまでも何度かインドを訪れているようで、ジャイプルではこのホテルを定宿にしているようだった。
 ミシェルは自分が飲んでいたビールを僕のためにも1本注文してくれ、ビールを飲みながら自分のことについて話し始めた。
「私はね、昔は事業で大成功して、ものすごくお金を持っていた。でもあるとき失敗をしてすべてを失ってしまったんだ。それで今は細々と暮らしながら、こうしてたまに旅行を楽しんでいるのさ。いっときは会社の経営者で、地位もあったし、豊かな暮らしをしていたんだけどね……」
 そして自分に言い聞かせるように、彼は続けた。
「でも仕方がない。それが人生ってものさ」
 ザッツライフ、と言うミシェルはしかし、どこか寂しそうでもあった。
 そのあともしばらく彼と話し続けると、僕はビールの礼を言って部屋に戻った。

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<Day 7 ジャイサルメール >


           1月12日 (ジャイサルメール~)

 寝袋の中で浅い眠りを繰り返すうちに、やがて空が少しずつ白み始めた。
 僕は寝袋から這い出ると、すでに起きていたディナが作ってくれたチャイを飲み、同じように起きてきたロバートと一緒に砂丘に登った。
 しばらくすると、地平線からゆっくりと太陽が姿を現し始めた。リンダもやって来て、僕たちは3人で砂丘の上から朝陽を眺めた。
 リンダは太陽が昇ったあとも1人砂丘に残り、そこで座禅を組むようにして座って太陽を見つめていた。瞑想か何かをしているようにも見えた。

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 朝食はトーストにストロベリージャムをつけたシンプルなものだった。
 インド式の朝食が出てくるのかと思っていたのでやや拍子抜けした感もあったが、これはディナたちが旅行者に気を使って西洋式の朝食を用意してくれたのかなという気もした。

 食事を終えると、昨日来た道を引き返し始めた。
 ラクダに乗った瞬間尻に痛みを感じ、これは多少しんどい道中になるかもしれないなと思った。その感覚はロバートも同じだったようで、しばらく進むと彼はラクダからおり、隊列と並ぶようにして歩き始めた。一瞬自分もそうしようかという気持ちになったが、なんとなく我慢してラクダに乗り続けた。
 やがて前方にホテルの迎えの車が見え、僕らのキャメルサファリは終わった。
 リンダがディナたちにチップを渡したいと言ってきたので、是非そうしようと言い、いくらがよいかと3人で相談した結果100ルピーをチップとして渡した。日本円にして200円。それが彼にとって嬉しい額だったのか、少ないと感じる額だったのか、正直わからなかった。その後お礼を言ってお別れをした。いい人たちだった。

 迎えに来たドライバーは、近くにあるいくつかの観光名所に立ち寄らないかと勧めてきたが、なんとなくこのまま町に帰りたい気分だった僕らは、その申し出をすべて断ってまっすぐレヌーカへと向かった。ホテルに到着すると、時刻は午後の1時になっていた。
 どうやらロバートも僕と同じように、今日の午後にジャイプルに向かう予定のようだった。ただ僕はバスで向かうのに対し、ロバートは鉄道だった。僕のバスは夕方発だったので、まだけっこうな時間があった。
 僕たちは一旦別れたのちに、レヌーカの屋上レストランで待ち合わせようと約束をした。僕は宿泊客ではなかったが、ホテルのシャワールームを使わせてくれるということだったので、そこで顔と髪の毛だけを洗い、ツアーでついた砂を落とした。

 シャワーを終え、幾分さっぱりした気分で出てくると、ホテルの入口から浅黒いアジア系の男が入ってくるのが見えた。「Hi」と声をかけると、彼は軽く頭を下げて返答した。
「こんちはー」
 それは日本語だった。それも片言ではなく、正真正銘の日本語だった。インドに来て以来、初めて遭遇した日本人の旅行者だった。僕はリンダに先に行っていると告げ、彼と一緒に屋上のレストランに上がった。
 バターパニールマサラカレーとナン、そしてチャイを注文し、食事をしながら話をした。彼は名前をジュンと言い、東南アジアとネパールを旅してインドにやって来たのだと言った。ジャイサルメールには昨日着いたらしい。
 しばらくするとロバートとリンダも上がってきたので、しばし4人で話をした。
「ああ、ここに一日中座っていられるな」
 ラクダに乗った道中で大分消耗したらしいロバートは、そう言って笑った。
 やがて町を散歩してくると言ってジュンが去っていったので、僕らは3人でガイドブックを眺めながら今後の旅のプランを語り合った。
 バスと鉄道でそれぞれジャイプルに向かう僕とロバートは、向こうで落ち合おうという話になり、町の地図を見ながら待ち合わせによさそうな場所を考えた。ジャイプルは大きな町のようだし、お互いインドで使える携帯電話なども持っていないので、あらかじめ場所と時間を決めておく必要があった。やがて一軒のカフェを待ち合わせ場所とすることにし、時間は明日の午後1時とした。ジャイプルには明日の朝方に着く予定なので、十分時間はあるだろう。リンダはひとまずジャイサルメールの東にあるジョードプルという町に立ち寄ることにしたようで、さっきそこまでのチケットを予約してきたと言った。

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 その後3人でジャイサルメールの町をしばらく散策し、やがて一足先に出発するというリンダとホテルの前で別れの挨拶をした。メールアドレスなどは交換していたので、この先の旅の途上で再び遭遇する可能性もなくはなかったが、それぞれのルートを考える限りその可能性は低そうにも思えた。列車でリンダと同席になったことで、ジャイサルメールの滞在はデリーの滞在とはずいぶん違ったものとなった。僕は彼女に感謝し、出会えてよかったと思った。

 リンダと別れた直後にホテルからジュンが出てきたので、また2人でレヌーカの屋上レストランに行って話をした。僕らはインドに着いてからの経験を語り合い、ジュンはインドでだまされた日本人のエピソードなどを語った。
「デリーであるサラリーマンがリクシャーに乗ったらしいんですけど、そのリクシャーの運転手が悪いやつで、言ったのとは全然違うホテルに連れていかれたらしいんです。それでなんかおかしいと思ってガイドブックを取り出して調べようとしたら、突然リクシャーの外にいた男に本をひったくられて逃げられちゃって……そのサラリーマンはもう自分がどこにいるのかもわからないし、仕方なく連れてかれたそのホテルに泊まったらしいんですけど、1泊で200ドル(約2万円)もふんだくられたそうですよ。デリーとかやばいっすよね」
 デリーでは大分警戒していたせいか自分はひどい目には遭わなかったが、やはりそういうことも起こるのだなと思った。訊いているとサラリーマンの無防備さにも原因はあるような気もしたが、用心はしたほうがよさそうだと改めて思いなおした。ジュンはインドのあとはトルコに行き、その後はアフリカに行く予定で、できれば南米にも行きたいと言った。彼は29歳で、彼もまた長い旅をしていた。
 インドではなぜか日本人の旅行者を全然見かけなくて、君が初めて遭遇した日本人だよと言うと、
「バラナシに行けば山ほどいますよ」
 とジュンは言った。バラナシとはインド東部のガンジス河のほとりにある有名な聖地で、かつてはベナレスとも呼ばれていた。僕もコルカタに向かう途中で是非立ち寄りたいと思っていた場所だったが、ジュンによるとそこは日本人に大人気で、日本人ばかりが泊まっているゲストハウスなどもあり、長期滞在する者たちで溢れているのだという。
 もっと話していたかったが、すでに午後4時をまわり、バスの時間が近づいてきていた。僕はジュンとアドレスを交換し、彼と別れた。

 ホテルのスタッフが呼んでくれたリクシャーに乗り、5分もするとバス乗り場に到着した。リクシャーの運転手は走っている際に、しきりにプシュカルという場所を僕に勧め続けた。
「プシュカルはとてもいい。場所もジャイプルに行く途中にある。是非立ち寄ったほうがいい」
 そう言われると是非とも行ってみたくなった。ロバートとの約束がなければそうしていたかもしれない。しかし今からロバートにそのことを伝えるすべがない以上、諦めるしかなかった。
 運転手は親切な男で、僕をバスの前まで案内してくれただけでなく、バスの中に入って僕の席がどこにあるのかまで調べてくれた。バスは普通の座席に加え、体を横たえることができるフラットなスペースがボックスのように区切られる形で2段に設置されており、さながら寝台列車ならぬ寝台バスといった感じだった。ジャイプルに到着するのは翌日の朝だったので、僕もまたこの寝台シートを購入しており、僕のシートは上段、いわゆる「アッパーバース」と呼ばれる場所だった。
 出発まで少し時間があったので、一旦バスの外に出て目の前の売店でお菓子や水を買い、運転手に代金を払った。リクシャーの料金は30ルピーだったが、20ルピーのチップを加えて50ルピーを手渡した。彼は感謝の言葉を言い、知り合いにレヌーカのことを宣伝しておいてくれと言った。
 その後もなかなか運転手は帰ろうとしないので、そばにあったチャイスタンドで一緒にチャイを飲んだ。そしてようやく発車の時刻となり、さて行くかと歩き出したそのとき、自分の足がなにか柔らかいものを踏んだ。
「おー、やったやった!」
 運転手が嬉しそうに僕を指さした。足元を見ると、そこには潰れた牛のフンがあった。インドに来て以来、道のいたるところにこうしたフンを見かけ、これまではうまくかわしていたのだが、ついに踏んでしまったというわけだ。うわ、まいったなあと近くの石などを使って必死にこすり落としていると、運転手が肩をたたいて言った。
「大丈夫、大丈夫。牛のフンを踏むのはラッキーのしるしだから」
 彼が気を使って言ってくれたのか、あるいはインドには本当にそういう考え方があるのかわからなかったが、とりあえずその言葉を信じることにした。

 バスに入って自分のシートに横たわっていると、あとから乗ってきたひとりの旅行者らしき男が訊ねてきた。
「なあ、そこは本当にあんたのシートか?」
「そうだよ。ここはGで、俺のチケットにもGと書いてある」
「おかしいな、俺のチケットもGなんだよ」
 どういうことだがわからなかったが、ここはあのリクシャーの運転手が案内してくれたシートだし、間違いないと思った僕は、ここは確かに自分のシートだと主張した。男はそうかと比較的簡単に引き下がり、しばらくしたのちに真下のシートが空いているようなので俺はここにすると言ってきた。あるいは彼はアッパーバース(上段)とロウワーバース(下段)を勘違いしていたのかもしれなかった。

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(夜行バスの中)

 そんな会話をしているうちにバスが発車し、少し走ると外が暗くなり始めた。
 やがて小さな町に停まったので、トイレに行くためにバスを降りてみた。
 用を足して戻ってくると、さっき座席のことで話しかけてきた男がバスの横でタバコを吸っていた。彼は西洋人にしては小柄で、身長は165センチくらいだろうか。顔にひげを蓄えていたが、年齢はまだ20代の半ばか後半くらいのように見えた。
「おい見ろよ、あそこの女。サイコーだな、ちょっと引っかけてくるかな」
 そう言って彼は、離れたところに立っている女性旅行者の2人連れを指さした。
「あんたはどっから来たんだ?」
 彼が訊ねてきた。
「日本」
「日本? マジかよ、この旅で日本人の旅行者に初めて会ったぜ」
「君はどこから?」
イスラエルさ」
 どこか退廃的な雰囲気を醸し出すその男は、幾分しゃがれた声でしゃべり続けた。
「インドはいいな。いろいろ周ってきたよ。南部がよかったな。ゴアも悪くないが、特にハンピだな。あそこは最高だ。ハンピはいい」
「それでこれからどこに行くんだい?」
 なんとなく話を合わせるようにして訊ねると、
「プシュカルさ」
 そう言って彼はにやにやと笑みを浮かべながらタバコをふかした。

 僕の横たわる寝台シートは左側が窓になっているのだが、ロックが壊れているらしく窓が完全にしまらなかった。風が入ってきて寒いので最初は足で押さえたりしていたのだが、足をどかすとすぐに半開きの状態になってしまう。どうにかできないものかとしばらく考えていたが、やがて諦めてただ寒さに耐えることにした。
 時折町の灯りの中を通り過ぎるが、それ以外は真っ暗な道をバスは走り続けた。空を見上げると、昨晩ほどではないにしろ星がよく見える。
 久しぶりに1人になったな、という感じがした。それはそれで悪くない感覚だった。